なぜ紫式部の父・為時は「藤原」なのに落ちぶれていたのか…「おまえが息子であったら」と嘆くのも納得な<一族の歴史>
『源氏物語』の作者・紫式部の生涯を描いたNHK大河ドラマ『光る君へ』の放送が、今年1月からスタート。一方で「源氏物語にはたくさんの謎があり、作者の紫式部にも、ずいぶんと謎めいたところがある。彼女にも彼女なりの『言い分』があったにちがいない」と話すのは、日本文藝家協会理事の岳真也さん。岳さんいわく「紫式部の父親は非エリートの貴族」だったそうで――。 【画像】位階一覧。式部の父や祖父の「従五位」がどこに位置するかと言うと… * * * * * * * ◆出自と生家 紫式部の生年は諸説ありますが、天禄(てんろく)元年~天元(てんげん)元年、西暦にすると970~978年ごろではないかと言われています。 「諸説の差が9年もある」となると、あやふやで疑わしく思ってしまいますが、当時の女性の名前や生まれ年、亡くなった年などの記録は、ほとんど残っていないのです。 記録が残されていたとしても、天皇家の子女のような、ごく限られた女性たちだけでした。 わりと確実性が高いのは、天延(てんえん)元年(西暦973)です。 『源氏物語の謎』(三省堂選書)の著者・井伊春樹氏は、兄の藤原惟規(のぶのり)の生年から推(お)して、そう記していますし、平安朝史の大家たる角田文衛氏も各著で、そのように表記しています。 また、「兄ではなく、弟だった」という説もありますが、けっこうな「オシャマさん」とおぼしき幼いころの紫式部が、そのかたわらで父の講義を聞いてしまう、といった逸話からしても、私は断然、「兄者(あにじゃ)」説を支持します。 ですから基本、天延元年の生まれということで、話を進めていきたいと思います。
◆下級貴族 彼女は貴族の娘ではあったのですが、紫式部の父親は、さほど位の高い貴族ではなく、受領(ずりょう)階級の貴族でした。 「受領」とは、「お上(かみ)から、いずこかの領地(地方)の差配権をあたえられる」との意味で、いわゆる国司(こくし)をつとめる階級です。 今日で言うなら、知事か市長、といったところでしょうか。 まぁ、それでも庶民からすれば、偉い人にちがいはありません。が、貴族社会では、天皇のそばで仕え、政治の中枢に身をおくことが、エリートの証(あか)しなのです。 つまりは、中間管理職とでも申しましょうか、紫式部の父親は非エリートの貴族=下級貴族というわけです。 名前は藤原為時(ためとき)。「藤原」と聞けば、平安時代ではかなりの家柄と思われるでしょうが、藤原氏にはさまざまな家系があって、奈良時代には南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)の四氏に分かれています。 平安時代中期になって、北家の藤原良房(よしふさ)が清和(せいわ)天皇の外戚となったことで、摂政(せっしょう)の役職に就き、実権を握ったのです。 為時も藤原北家の出ではありますが、良房の弟・良門(よしかど)の系統だったため、主流の藤原摂関家(せっかんけ)とは大きく差のついた地位に甘んじなければなりませんでした。 ただ、為時の祖先には有名歌人が輩出し、為時みずから歌も詠みますし、優れた漢学者だったのです。
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