富士山と宗教(16)上吉田を法螺貝を鳴らして歩く山伏はどこから来たのか
富士講信者も歩いた富士道を行く
高尾山頂手前にある浅間神社を出発し、歩いて富士吉田に向かうという。その道は富士道(ふじみち)と呼ばれ、江戸時代、富士講の信者たちが歩いた道だ。富士吉田から、さらに徒歩で富士山頂に登拝し、山頂にてお鉢巡りをするのだ。 第1回の徒歩練行は10日ほどかけて、歩いて富士山頂へ登拝し、歩いて高尾山まで帰ってきたが、さすがに時間がかかることから2回目以降は高尾山から富士山頂まで歩き、帰りは富士山五合目まで歩いて、五合目からバスで高尾山に戻るようになったという。 かつて富士講信者が歩いた富士道を修行の道として復活させたことが「縁」となり、高尾山修験道の山伏たちも吉田口登山道の開山前夜祭に参加するようになった。上吉田を練り歩いていた山伏は高尾山の山伏だったのだ。 高尾山の山頂からは富士山が眺望でき、山頂には「関東の富士見100景」と記された展望場も設置されている。富士山を信仰した北条氏康によって建立された浅間神社は、山頂をやや下った山道沿いにあるが、かつて山頂付近には中が空洞の観音開きの祠があったとも言われている。観音開きの扉を開けると、そこに富士山が見えたというのだ。高尾山は関東一円の富士山信仰、さらに富士講と深い結びつきがあったと考えられるが、その詳細は明らかになっていない。
真言宗系と天台宗系の修験道
「高尾山薬王院は昭和の初めの火災で庫裡が全焼しました。その時に古文書や諸々の史料も焼失してしまいました。古文書などが焼けずに残っていれば江戸時代からの富士山との関わりなど詳しいことがわかったのではないかと思うのですが……。先日も富士講の大先達に、高尾山と富士山の古文書や記録がないですか、という話をしたところです」と中原師は語る。最近、大学図書館から新たな事実を示す史料が発見されたという。高尾山薬王院の外に残っている歴史史料から高尾山と富士山との関係を探る努力が行われているようだ。 「富士山は修験道の山」と中原師は言う。修験道は日本古来の山岳信仰に仏教や道教などが混合した日本独自の宗教と言われている。
修験道には大きく分けて、天台宗系の本山派と真言宗系の当山派があり、かつては本山派総本山の聖護院が日本の修験道の「頂点」にあった。しかし、真言宗系の山伏から不満が高まり、江戸時代、徳川家康により天台宗系と真言宗系に分かれた経緯があるようだ。 静岡県富士宮市の村山浅間神社かつての興法寺が聖護院の末寺として村山修験道を営んでいたことをこの連載ですでに紹介したが、真言宗系の高尾山修験道も富士信仰と深く結びついているのだ。修験道と富士山はどのような関係にあるのだろうか。富士山と修験道の関係を探っていく。