娘が流したSnow Manの曲に私が「日本の未来」感じたワケ 私たちが必要としている「弱者」の再定義とは?
「小田原の話、知ってる?」 「知ってる。いつも生保のくせにオプジーボ使うなって思うんだよね」 「税金払ってないもんな。生保は生保並みの治療で我慢しろよな」 助けられているのだから、高度な医療くらい遠慮しろ、と彼らはいう。命に軽重があるのか? これが日本の医療を支える若者の声なのか? 私は怒りで震えそうになった。 ■「既得権のない弱者」の「既得権を持つ弱者」への怒り だが、ふと気づく。この若者たちの声と、小田原市に寄せられた声はそっくりではないか。双方に共通するのは、弱者へのねたみと憎悪。いや、もっと正確にいうならば、「既得権のない弱者」の「既得権を持つ弱者」への怒りではないか。
朝から晩まで働き、爪に火を点すような暮らしをしている人がいる。世帯収入のピークは1990年代後半。結婚や出産、持ち家をあきらめた人も多い。彼らの目には、働かずに収入をもらえる生保利用者は、「特権的弱者」に見えているのかもしれない。 医者と聞くと富裕層をイメージする。だが、研修医の年収は平均400万円強というデータもある。夜間勤務や長時間労働に苦しみ、過労死すら起きている。そんな彼らもまた、「既得権のない弱者」だったのではないか。
「国際社会意識調査」を見てみよう。 以下の質問を「政府の責任」と考えない回答者の割合の多さを知ることができる。まるで、私たちは、「弱者」を「既得権者」と認識し始めているようだ。 「病人が病院に行けるようにすること」1位/35カ国 「高齢者の生活を支援すること」1位/35カ国 「失業者の暮らしを維持すること」2位/34カ国 「所得格差を是正すること」6位/35カ国 「貧困世帯の大学生への支援」1位/35カ国
「家を持てない人にそれなりの家を与えること」1位/35カ国 「弱者」の救済は道徳的には正しい。市職員の行為を支持した人たちも、研修医たちも、まちがっている。だが、「弱者へのやさしさ」を当然視するリベラルは、長年、苦戦を強いられてきた。正しさが民意と同じであるとは限らない。 哲学者ニーチェは、「強者」に対するねたみ、憎悪を「ルサンチマン」と呼んだ。生活苦や仕事のきびしさに耐えている大勢の人たちが、さらなる弱者の既得権を監視し、ねたみ、批判する。まるで「ゆがんだルサンチマン」だ。