太平洋戦争開戦10カ月! 空や海で活躍し散華した英霊たちの記事が誌面を飾り始める
開戦から10カ月ほど経過すると、当初の連戦連勝に沸き返る記事は影を潜めてきた。代わりにさまざまな戦線で活躍し、亡くなった英霊たちを紹介する記事が目立つようになる。だが彼らは、国民を鼓舞する素材とされた。 昭和17年(1942)の秋に発行された『写真週報』10月7日号には、戦争の緒戦時に戦隊長として「加藤隼戦闘隊」こと「飛行第64戦隊」を率いて大活躍。つねに「指揮官先頭」を実践していた陸軍のエース・パイロット、加藤建夫中佐(かとうたてお/最終階級は戦死後に2階級特進し少将)の陸軍葬の記事がトップに掲載されている。加藤の戦死は5月22日だが、陸軍葬は4カ月後の9月22日に行われた。「空の軍神」と讃えられたパイロットの戦死は、ミッドウェーでの敗戦と異なり、広く一般国民に知らされ、その弔い合戦が鼓舞された。 それに続く巻頭特集では、東条英機(とうじょうひでき)首相兼陸相をはじめ岸信介(きしのぶすけ)商工相、賀屋興宣(かやおきのり)蔵相、八田嘉明(はったよしあき)逓信相兼鉄道相らが、東大や炭鉱、築地市場などに視察に出かけた記事が掲載されている。どれも戦争遂行のため、あらゆる方面から国民の団結を呼びかけるもので、政府の高官たちは、今度の戦争は一筋縄ではいかない事を肌で感じていた事が伝わってくる。 そして次の記事がとても興味深い。具体的な艦名、日付、場所などは明らかにされていないが、日本とドイツの潜水艦が、どこかの港で会合したことが、写真入りで紹介されている。報告は大本営海軍報道部部員の濱田昇一海軍少佐。そこから、正式に海軍から提供されたニュースだとわかる。 作戦について、とくに機密性が重んじられる潜水艦の行動をあえて記事にしたのは、日独伊三国同盟締結記念日を目前に控え、すでに日独にとって太平洋からインド洋、そして大西洋に至る広大な海域は制圧済み、ということを強調する意図からであろう。ちなみにこの時に欧州訪問を成功させたのは、1942年8月6日にフランス・ロリアン港に入港した、第一次遣独艦の伊号第30潜水艦(艦長・遠藤忍中佐)だと思われる。 潜水艦に関する詳しい記事は、他の号でも見られる。同年10月21日号のトップ記事は、オーストラリアのシドニー湾を強襲した特殊潜航艇の乗組員4人が、無言の帰国を果たしたというものであった。 この作戦は昭和17年5月17日と18日、特殊潜航艇を搭載した潜水艦伊22、伊24、伊27の3隻がトラック島を出撃。3隻は31日の昼には、シドニー港口から16km以内に到達した。 そこで現地に月が出る19時15分まで待機し、19時45分にまず先頭の伊27に搭載されていた中馬兼四(ちゅうまけんし)大尉、大森猛一曹の艇が出撃。その後、20分間隔で伊22搭載の松尾敬宇(まつおけいう/よしたか)大尉、都竹正雄二曹の艇、最後に伊24搭載の伴勝久(ばんかつひさ)中尉、芦辺守一曹の艇が出撃した。 中馬艇はフェリーボートの後に付いて最初の防潜網を突破。だが不運にも次の防潜網に引っ掛かってしまい、結局は1時間半の苦闘の末、脱出が不可能と悟り自爆。 松尾艇は湾口で磁気探知機にキャッチされ、監視中の哨戒艇の照明灯により司令塔を捉えられてしまう。それでも敵の攻撃をたくみにかわし、4時間以上も海底に沈座。そして午前3時になり防潜網の外に出たアメリカの重巡シカゴを襲撃した。だが魚雷が発射されなかったため、松尾大尉は体当たりを決断。シカゴは間一髪のところでこれを回避する。 松尾艇は出撃から9時間が経過しても諦める事なく、今度は西岸に沿って西湾内に侵入する。そこで獲物を求めて2時間が経過した頃、哨戒中の掃海艇に発見されその後、4隻の掃海艇による爆雷攻撃により撃破された。 最後の伴艇は、松尾艇が発見され敵の警戒がそちらに集中した隙に、防潜網の東側出入口を抜け、発見されることなく西湾内に侵入することに成功する。そこで重巡シカゴを発見し、2本の魚雷を発射した。1本はシカゴの艦首数メートル先を通過し、海岸に突っ込み不発。もう1本はシカゴの艦底を通過し、接岸中だった兵員宿泊艦クタバルに命中。これを撃沈する。 伴艇は敵の混乱に乗じて湾外に脱出はできたが、砲撃などで受けた損傷のため母艦に帰ることは叶わず、タスマン海の底に沈んでしまった。この伴艇を除く中馬艇、松尾艇はオーストラリア海軍により引き揚げられ、遺体は手厚い海軍葬が営まれている。 記事は中馬大尉、大森一曹、松尾大尉、都竹二曹の遺骨が、日英交換船鎌倉丸に乗せられ10月9日、横浜港に無言の帰国を果たした、というものである。記事内ではオーストラリアのフェアな精神を褒め称えているものの、それにより戦争の目的は微動だにしない、と結んでいる。残念ながら残る1艇、伴艇については何も語られていない。
野田 伊豆守