新関脇として大関昇進を目指す、大の里の素顔。初土俵から7場所「最速優勝」果たした愚直な青年の軌跡
「自分は大卒なのでもう22歳。遊んでいる暇はありません」
一変したのは、日本体育大学に進学してからだ。1年生で全日本インカレ個人戦を制し、学生横綱になった。変身の秘密を日体大相撲部の齋藤一雄監督は、「つま先の角度を少し変えただけでね」と教えてくれた。本人は「1年生なんでのびのび戦えました」と言った。 大学2年時は伸び悩んだ。3年になって再び常勝街道を走り始めた。12月の全日本選手権で優勝、アマチュア横綱に輝いた。翌年も連覇。優勝インタビューで両国国技館の天井を見上げ、「プロとしてこの舞台で活躍したい」と抱負を語った。その日から「どの部屋に入るか」に注目が集まった。 多額の支度金を提示する部屋、引退後の部屋継承を条件にする部屋など、様々な噂が聞こえた。決まったのは卒業間際。選んだのは、中学から大学まで約10年を共に過ごした高橋(現白熊)と嘉陽のいる二所ノ関部屋だった。 出身校での入門会見で「選んだ理由」を訊かれ、泰輝は答えた。 「ここ(高校のある糸魚川市能生町)も何もなくて相撲に専念できました。二所ノ関部屋の周りも何もないので相撲に集中できると思って」 同席した二所ノ関親方も、糸魚川市長も苦笑していたが、それが彼の偽らざる思いだったのだろう。記者たちの戸惑いを見て、こう付け加えた。 「自分は大卒なのでもう22歳。遊んでいる暇はありません」 夏場所ではすっかりファンから認知され、「パパの里」とも呼ばれて愛され始めた父・知幸が言う。 「泰輝は幼いころから進路は全部自分で決めてきました。二所ノ関部屋を選んだのも泰輝です。我々は記者会見の日に初めて二所ノ関親方にお会いしました」 知幸と母・朋子は入門会見に行く途中、糸魚川駅近くの喫茶店で初めて元横綱・稀勢の里の二所ノ関親方に会った。そこで〈大の里〉と書かれた色紙を見せられ、かつてその四股名で「相撲の神様」と呼ばれた先人の伝記を贈られた。条件提示などは親には一切なかった。
初めて味わう異様な緊張感「あの静けさが逆に怖かった」
泰輝は石川県河北郡津幡町で生まれ育った。「強くなりたい!」と思った泰輝は、中学進学にあたって新潟県糸魚川市能生町に新天地を求めた。6年生の時、全国高校相撲金沢大会を見た。決勝戦で大将戦を制し海洋高校を優勝に導いたのが同じ石川県の穴水町出身の三輪隼斗だった。「能生に行って三輪先輩のようになりたい!」、泰輝は決心し、両親を説得した。 泰輝は、能生に相撲留学してすぐ父が安い車(軽ワゴン)に買い替えたことを胸に刻み付けている。余分な費用がかかるために、父母に迷惑をかけた。この恩は絶対に返す。父母はその軽ワゴンで全国どこにでも応援に来てくれた。すっかり年季の入った軽ワゴンの走行距離は17万キロを超えている。 今年1月の初場所、新入幕ながら結びの一番で横綱・照ノ富士と対戦する栄誉を担った。「頭が真っ白になった」と、田海に洩らしたという。場所後、高校の在東京OB会の座談会で司会を務めた私は本人にそれを訊いた。すると、彼らしい茶目っ気とサービス精神だろう、こんな秘話を披露してくれた。 「あの日自分は西方でした。懸賞金って西に置いてあるんです。ふと分厚い懸賞金の束が目に入って、舞い上がってしまいました」 そして真顔で続けた。 「幕入り直後と違って結びになると客席は満員だし、歓声も凄かった。なのに制限時間いっぱいになった途端、シーンと静まり返った。あの静けさが逆に怖かった」 初めて味わう異様な緊張感に威圧された。横綱の術中にはまり、完敗した。