寝たきり社長の働き方改革(25)インクルーシブ教育の是非とその先
この連載では「寝たきり社長の働き方改革」と銘打っているだけあって、筆者はこれまで「働く」をテーマの中心に記してきた。だが、今回はある意味、「働く」こと以上に大切である「教育」について筆者の考えを述べていきたいと思う。 【連載】寝たきり社長の働き方改革 まず、皆さんは「インクルーシブ教育」という言葉を聞いたことはあるだろうか。 インクルーシブ教育というのは、障がいの有無にかかわらず「誰もが望めば合理的な配慮のもと地域の普通学級で学べる」ということである。一昔前まで、いや、少なくとも筆者が学生時代までは障がい児=特別支援学級(あるいは特別支援学校)へ入学というのが常識だった。しかし今は、そうではない時代に変わりつつある。 たとえ、いくら重い障がいを抱えていたとしても、本人や家族の強い希望があれば合理的配慮に基づき、普通学校への入学を認められるというものだ。もちろん、障がい児が普通学校に入学するにあたって設備面の問題もあれば、その子をサポートする人材の問題などが発生してくるわけなので、行政や教育委員会と交渉しても簡単に首を縦に振らない。ケースによっては、障がい児の親がそれに対し「普通学校に入学するという権利」を勝ち取るべく、裁判を起こす事案まであるという。 実際、筆者の周りでも、筆者以上に重度な障がいを持ったお子さんが普通学校に入学しているのを見ると、「時代は変わったな」と少し年寄り染みた感情も芽生えることがある。当然、健常者と障がい者は同じ人間だ。そして、男女平等と同じようにお互いがフェアな存在でなければならない。だからこそ、この時代の変化には筆者も喜びを感じる部分がある。だが一方で、筆者が思うのは「男性」と「女性」、そして、「健常者」と「障がい者」の対比で言えば、これらは「平等」であるが、決して「同質」ではないことである。 障がいを持つ子どもと障がいを持たない子どもが共に学ぶことは素晴らしいことだし、さらに言えば、その障がいを持った子ども本人が「普通学校へ入学したい!」という意志を持っていたとするならば、行政や教育委員会は全力でサポートすべきだ。 たとえ、そこに多少の税金を費やす必要があったとしても、筆者も納税者の端くれとしてそこには大いに賛同したい。だが一方で、本当にその子本人が望んでいるのか、その子本人のためになるものなのか、という点はときどき疑問に感じる。 筆者は特別支援学校の出身だ。ましてや、最終学歴が特別支援学校の高等部卒業なので、実は高卒扱いではない。今は経営学修士を目指す大学院生ではあるものの、まだ修士は取れていないので、厳密に言うと筆者は中卒である(笑)。 少年期には普通学校に強い憧れもあった。でも、今ではそんな思いは微塵も感じない。何故なら、今の自分を作り上げてきた土台、それは紛れもなく特別支援学校だったわけだし、特別支援学校という狭い世界ではあるものの、筆者は常にオンリーワンの存在で認められたり、生徒会長になったりと学内でリーダーシップを図れた。 繰り返しになるが、「健常者」と「障がい者」は「平等」であっても「同質」ではない。もし筆者が普通学校に入学したら、仮に周りが平等に扱ってくれたとしても、常に劣等感に苛まれていたかもしれない。自分だけの価値に気付くこともなければ、ましてや、「障害を武器にする」なんて言い出す、寝たきり社長が誕生することもなかったかもしれない。 インクルーシブ教育の理念は素晴らしい。しかし、教育現場すべてを混ぜこぜにするやり方がすべてじゃないと思うし、子どもが未熟な期間は教育環境を分けても筆者は決してマイナスではないと思う。 大切なことは大人の理想よりも、その意図するところが最終的に「子どもの幸せ」につながっているかどうかである。