「ベンツ一台」の高級品がゴロゴロある…激安で墓石引き取り供養する「墓石の墓場」で発見したモザイクアート
■織田信長や明智光秀の居城にも墓石が使われている 墓じまいの加速によって、近年、持ち込まれる墓石は増える一方だ。安置場のキャパシティは限界に達しつつあるため、現在、山をさらに切りひらいて第二安置場を造成中とのことだ。 こうした墓石の墓場は他にもある。京都市西京区の金蔵寺もまた、持ち主がいなくなった墓石を引き取り、集積してきた。京都市の西の端、大阪府にも近い山の中に「金蔵寺無縁塚」と呼ばれる墓石の安置所がある。そこには関西一円から持ち込まれた墓石が1万基以上、整然と並べられて、供養されている。 また、愛知県豊田市の妙楽寺でも墓石の引き取り供養を実施し、ここでも定期的に清掃や供養が実施されているという。 子孫が供養することがなくなった墓が、一箇所に集められて供養される。そうして、粉砕処分を免れた墓は、「第二の人生」を歩み出す。 ここまで、墓石の墓場という特殊な事例を紹介したが、実は半世紀ほど前までは、墓石の安置場はどの地域でも見られたものだ。境内墓地や霊園の片隅に、ピラミッド状に積み上げられた無縁墓の集積体を、見たことがある人も少なくないだろう。 また、戦後しばらくは無縁墓が「再利用」されていたこともある。墓石の正面には「◯◯家之墓」、側面には建立主や戒名などの個人情報が刻まれているものだが、表面をスライスして、新たな銘を刻むのだ。したがって、墓の竿石の奥行きが薄っぺらい直方体になってしまう。昔は、石材は貴重であったため、なるべく墓石も再利用したのだ。実に、合理的かつエコな発想である。 だが、どの境内墓地も無縁墓エリアのキャパシティがなくなってきた。また、石材に対する価値の認識が失われ、また安価な輸入材が入ってきたことなどから、墓石への愛着がなくなり、あっさりと撤去するケースが目立っているのだ。 やむなき墓じまい後の墓石の再利用(リフォーム)は実に理にかなった、墓の維持・活用法ともいえる。その実例を各地の「城」に見ることができる。石垣や石畳への転用である。 例えば、明智光秀の居城であった福知山城。1579(天正7)年に築城されたと伝わる。その石垣には、墓石が使われている。福知山城は3層4階の秀麗な天守閣で知られている。天守閣を支える石垣をつぶさに見ると、自然石に混じって加工・彫刻された立方体や直方体の石が混じっている。蓮台の彫刻も確認できる。これらは、墓石を石垣に利用した「転用石」と呼ばれるものだ。 明智光秀が墓石を築城に使った理由は諸説あるが、地域の寺院勢力を削ぐために、寺院墓地を破壊することで権力を誇示しようとしたとも伝わっている。 1986(昭和61)年に天守閣の再建が行われた際、福知山市が石垣の調査を実施すると、およそ500基もの墓石が石垣に転用されていることが認められた。墓の種類はさまざまで、宝篋印塔や五輪塔という格式の高い墓の石が使われていた。城内には、転用石の展示コーナーもある。 織田信長が築いた安土城も然り。天守閣へと向かう石畳に五輪塔や、墓石として使われた石仏が使われている。合理的といえば合理的だが、墓を踏みつけるのはどこか躊躇させられるものがあるのも、正直なところではある。 墓じまいを考えている人は、「墓の末路」にも関心を寄せてほしい。 ---------- 鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり) 浄土宗僧侶/ジャーナリスト 1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。 ----------
浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳