モデルは軍服?消えゆく「学ラン・セーラー服」 制服廃止運動も起きた戦後までを振り返る
現在、日本の多くの中高生が着用する学校制服は、明治から始まり、戦後、平成、令和と進化してきました。 【アンケート結果】学校制服はいる?いらない?中高生1200人に聞いた制服の必要性 その姿は、まさに社会を映す鏡。今や姿を消しつつある「学ラン」や「セーラー服」の始まりから、制服の持つ意味や素材が大きく変化していく戦後までを振り返ってみましょう。
◆“権威”の象徴だった制服。「詰襟」や「セーラー服」の始まりは?
洋装の学校制服は、男子は1879年(明治12)の学習院、女子は1919年(大正8)山脇学園などから始まります。 当時、男子の制服の多くは、詰襟(つめえり)型。特に1886年(明治19)に採用された帝国大学の制服は、金ボタン式詰襟の始まりといわれています。お手本は、陸軍の制服でした。 皇族や華族の子弟のための学校である学習院、唯一の大学であった帝国大学から率先して制服が導入されていることからもわかるように、男子の制服は、権威や近代教育の象徴でもありました。 女子については、1920年代から洋装制服を取り入れる高等女学校が増えてきました。大人気となったセーラー服を筆頭に、ワンピース、ジャンパースカートなどがありました。 当時、高等女学校に進めるのはごくわずかであったため、生徒(現在の女子中高生にあたる)は、人々の興味を引く存在でした。学力と経済力のほか、「女子にも教育を受けさせよう」という家族や周囲の理解がなくては進学できませんでしたから、恵まれていたことは確かです。 逆に「女のくせに生意気だ」という目で見られることも珍しくはなく、良くも悪くも注目を集めていたのです。 けれどもその後、旧制中学校や高等女学校への進学率が上がるにつれて、権威の象徴でもあり、特別な存在であった洋装の学校制服は、次第に一般的になっていきます。
◆戦後“平等“の象徴へ移行するも、「制服廃止」の運動も
第二次世界大戦後には、義務教育が6年から9年に延長され、中学校が誕生します。旧制中学校と高等女学校は高等学校へと改変されました。 1960年代には、全国で多くの中学校が制服を導入します。男子は詰襟、女子はセーラー服を中心とし、ジャンパースカート、ワンピースなどが選ばれています。 社会が豊かになるにつれ、生徒の服装が派手になったり格差が生じたりして、学校側でなんらかの対応をする必要があったからです。 また制服が、貧富や身分の差は関係なく学ぶことができる「平等」を表すものとなったことも意味します。 そんな流れの中で注目したいのが、1960年代末の「制服廃止」の動きです。学生運動が社会問題になっていたころ、高校でも、全国的に高校闘争が起こっていました。 当時、高校生が訴えていたのは、校則の撤廃や政治活動の認可、ベトナム戦争反対など。 制服については、束縛、軍国主義や画一化を連想するものとして、自由化が求められました。実際に、高校闘争により、多くの公立高校で制服が廃止されています。 学校制服は、たった100年足らずの間に、権威から平等、管理の象徴へと移り変わっていったのです。「平等」「管理」という面は、今も変わりないのかもしれません。