【ネタバレなし】『陰陽師0』奈緒演じる徽子女王。わずか8歳で未完成の斎王になり<日本史上最大級の怨霊>と対峙…その重責を日本史学者が解説
◆「菅原道真の祟り」 醍醐天皇の治世後半は恐ろしい時代でした。 まず東宮(皇太子)の第二皇子保明親王が、延喜二三年(923)に若くして亡くなります。 代わって東宮(皇太孫)になった長男慶頼王も5歳で亡くなり、醍醐の第十一皇子がわずか4歳で新東宮に。これが朱雀天皇です。 保明と朱雀の母は藤原穏子。関白藤原基経の娘で、醍醐朝初期の権力者・左大臣藤原時平の妹でした。 そしてこれらの事件は、醍醐天皇を右大臣として支えながら、昌泰四年(901)に時平によって大宰府に左遷され、悲憤の末に死去した「菅原道真の祟り」と信じられたのです。 そのため東宮は、外にも出さずに育てられます。しかし延長八年(930)に内裏に落雷があり、醍醐自身はショックで亡くなり、朱雀が8歳で即位することになりました。 朱雀朝最初の斎王は異母姉の雅子内親王でしたが、伊勢に赴いて二年余で母が亡くなって交替。代わった姉妹の斉子内親王も、すぐに重病で退任して亡くなりました。 そして承平六年(936)、徽子に回ってくるはずのない「斎王」という大役が降ってきたのです。
◆8歳で「未完成の斎王」となった徽子女王 徽子の母は、朱雀天皇の摂政・藤原忠平の娘の寛子です。 忠平は時平の弟で穏子の兄。バランス感覚に優れ、醍醐朝の政治を主導してきました。 醍醐の多くの皇子の中で、忠平の娘を妻にできたのは保明・重明親王のみ。徽子は天皇とも摂関家とも関係の深い、高貴な血筋の皇孫だったのです。 道真の怨霊への恐怖の中、前任者が急死した斎王への抜擢。名誉ではありますが、過酷な大任でもありました。この時徽子女王8歳。 徽子の旅立ちは天慶元年(938)年のこと。しかしその日、朱雀天皇は物忌(ものいみ)で、対面できず、天皇から黄楊の櫛を額に挿される「別れの櫛」の儀式も、摂政の忠平が代行しました。 これは天皇から祭祀を委託される重要な儀式なので、徽子はいわば「未完成の斎王」として斎宮に送られたのです。
【関連記事】
- 本郷和人『光る君へ』河原で遺体を見つけておどろいたまひろ。でも庶民の遺体の扱いとしてはいたって普通で…平安時代の埋葬について
- 愛子さまが卒論のテーマにした皇族女性「式子内親王」とは?平家全盛から源平合戦までの<平安末期>を生きた波乱の人生について日本史学者が解説
- 本郷和人『光る君へ』本郷奏多さん演じる花山天皇に入内した井上咲楽さん演じるよし子は、そのまま「夜御殿」で…そもそも「入内」とは何か
- 紫式部の父・為時を「大国」越前守に抜擢したのは道長?結婚適齢期を過ぎた娘をわざわざ赴任先に連れていった理由とは…
- 下重暁子 藤原道長からいじめ抜かれた定子を清少納言は懸命に守ったが…紫式部が日記に<清少納言の悪口>を書き連ねた理由を考える