池上季実子が語る昭和の2大スターとの共演秘話、今だから話せる壮絶撮影の舞台裏、「納得はしていなかった」脱がないと注目されない時代の風潮
新型コロナで退院直後も現場に酸素ボンベ持参で撮影
ーー今回は、所作ももっさりして、「おばあちゃん」の雰囲気が出ていましたね。 「体重をちょっと増やして、動くときは背中を曲げながらやるようにしました。孫に、“広い茶畑や工場を、もう僕らが引き継がなきゃ”って思わせるようにしないといけないので、元気溌剌でシャキーンとしたおばさんじゃダメだったんですよ」 ーー新型コロナで退院直後では、実際、撮影は大変じゃなかったんですか。 「現場には酸素ボンベを持って行って、本番のときだけ外していました」 ーーまさに命懸けだったんですね。 「いやいや。ま、そんなふうに書きたいんでしょうけど、私はそんなこと言わないよー(笑)。でも、絶対やりとげたかったのは事実ですね」
高倉健、菅原文太、名優たちとの共演秘話
ーーさて、話は変わりますが、今年でデビュー50周年。振り返ってみていかがですか? 「あっという間でしたね。でも、50年というとやっぱり感慨深いものがあります」 ーー映画『ハウス』(77年)でのヌードシーンが衝撃でした。 「あの頃って脱がないとなかなか注目されない時代だったじゃないですか。そういう時代の風潮に納得はしていなかったですね。 だから『冬の華』(78年)、『化粧』(84年)といった作品のほうが、自分としては思い入れがあります」 ーー『冬の華』は、高倉健さんと共演されました。 「 健さんは、本当に寡黙で、映画の役そのまんまでしたよ。健さんが撮影所にいらっしゃると、東映の方たちが直立不動でダーッて並ぶんです。でも、それって怖いからじゃなくって、心からリスペクトしているからなんです。当時、健さんの偉大さをよく分かっていなかった10代の私にも、その光景から、すごさが十分に伝わってきました」 ーー実際にお話しされたりしていかがでしたか。 「最初、私が緊張していると、健さんのほうから立ち上がって、“高倉です。よろしくお願いします”って頭を下げられたんです。もうビックリ。それだけで、人間的なすばらしさが理解できたし、そんな方とご一緒できるのはとてもうれしく思いました」 ーー79年の映画『太陽を盗んだ男』では、菅原文太さんと共演されました。 「菅原さんもね、紳士的で、偉ぶらない、とても親切な方でしたね。この映画、撮影がとてもハードで、撮影中に助監督が5人くらい逃げちゃったり、プロデューサーが留置場に入ったりして、撮影が進まなくなって待ちの時間が多かったんです。だから、共演者の方とお話する時間がたくさんありました」 ーー皇居前広場で、無許可でバスを走らせるなどのゲリラ撮影が当時、話題になりましたものね。 「そうそう。特攻隊みたいな撮影をしちゃったから、現場スタッフの代わりにプロデューサーが捕まったんです」 ーーなんかすごい現場だったんですね。 「すごいなんてもんじゃないわよ。私なんか、ヘドロだらけの東京湾に飛び込まされたんですから」 ーーすごいを超越してます。 「“死んだらどうするんですか!”ってマネージャーもブチ切れて」 ーーそりゃそうですよ。でも、やったんですよね。 「東京湾から上がってすぐにお風呂に入ったけど、臭いも汚れも落ちやしない。新宿でのロケセットのときも地獄でしたね」 ーーまだ、あるんですね。 「ラジオDJの役で、透明なカプセル型のブースに入るんですが、炎天下なので、中の気温が50度くらい。セリフも10ページほどあって、それがテストのたびに変更になるんです。汗はダラダラ止まらないし、最後のほうは半ギレでした」 ーー「すごい」しか、言葉が出てきません。 池上季実子(いけがみ・きみこ) 1959年1月16日、アメリカ・ニューヨーク州生まれ。O型。T157。3歳で帰国し、小学校卒業までは京都に住んだのちに東京に転居。1974年、テレビドラマ『まぼろしのペンフレンド』(NHK)でデビュー。以降、多くの映画、ドラマ、舞台で活躍。『陽暉楼』(84年)で第7回日本アカデミー賞主演女優賞、『華の乱』(89年)で第12回日本アカデミー賞助演女優賞受賞。 THE CHANGE編集部
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