東京大空襲で目にした一面の遺体「戦争で得るものは何もない」
川は遺体で埋まり、電車の駅にも折り重なる犠牲者 ── 。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を通学途中に目撃した長野市の会社役員武井敏雄さん(86)=東京都出身=が15日、同市内で体験を語りました。「戦争で得るものは何もない」という訴えに、聴講した市民らがうなずいていました。 【写真】「東京大空襲」とはどんな空襲だったのか?
空がまさに燃えていた
武井さんは1937(昭和12)年に家族と東京・日本橋から千葉県市川市に移転。B29の東京空襲が頻繁になり始めた1944(昭和19)年には旧制江戸川中学(現都立江戸川高)の3年生で、授業そっちのけで軍需工場の勤労動員で働く毎日でした。 翌1945年の3月9日午後10時ごろ、警戒警報もなく突然の空襲警報があり、しばらくして自宅の外に出ると東京の空が真っ赤に。「空が赤いのではなく、空がまさに燃えていたのです。あんな空は見たことがない」。 明けて3月10日朝、電車が止まっていたため自転車で学校へ。江戸川を越えて都内に向かうと、千葉街道は焼け出された人たちが千葉に向かって列をつくり、焦げた髪の毛や衣服のまま子どもの手を引いた母親などがやっとの状態で歩いていました。 亀戸まで来ると、高架の亀戸駅のホーム上は焼け死んだ人たちが重なって山となるような状態。錦糸町、両国あたりでは焼け焦げた遺体が道路にいっぱいで、自転車は走れませんでした。「遺体は木の根っこのようになっていて、性別すら分からなかった」。 錦糸町の木場の川には遺体がびっしりで、水面が見えないほど。防火用水も同様でした。東京を象徴する国技館も骨組みだけになっていました。 あまりのことに帰宅しかけたところ、2人の兵士が遺体をトラックに投げ込んでいるところに遭遇。また、錦糸町では菓子の製造店の水あめが道路に流れ出ていて、一般人がそれを食べていたが、兵士たちも加わりました。そこへ憲兵が来て厳しく怒鳴りつけていました。 後で聞いた話だと、隅田川をボートで逃げようとした人たちが、追いすがってボートに乗ろうとした人々の手を無理やりはずして乗せなかったと。「ボートが転覆することを恐れたのかもしれませんが」。 こうした光景に、武井さんは「完全に日本は負けたと思いました。しかも焼け出された人々にはおにぎりどころかパンの1つも出なかった。国からの補償もなかった」。