『ブギウギ』を通して“蘇った”笠置シヅ子 趣里=福来スズ子は“万華鏡”のようだった
主演に選ばれた趣里は、決して笠置シヅ子に似ているわけではない
『ブギウギ』とは、アイコンと違った笠置シズ子を福来スズ子を通して作ってみたのではないか。なにかひとつを原作にするのではなく、本人や関係者、ジャーナリストと様々な視点から書かれた大量な情報の断片を取り出し組み立てていったのでは……。できるだけ多角的にひとりの人物を描きたいという考えは大いに賛成するところである。 そもそも、主演に選ばれた趣里は、東京生まれで、華奢で、バレエをやっていて、“おばちゃん感”はまるでなく、少女のようで、笠置シヅ子とはあまり似ていない。この趣里の個性も加わって、笠置シヅ子をモデルにした福来スズ子像はますます万華鏡のように断片化していった。そういえば、タイトルバックも万華鏡のようだった。 羽鳥がラブソングとして作った「ヘイヘイブギー」を愛子の歌として歌ってきたスズ子だったのに、羽鳥にとっての「最高の人形」でありたかったという矛盾。でも人間とは矛盾の塊なのである。そして、スズ子は愛子を産んだときから、実は羽鳥離れをしていたのかもしれない。 引退コンサートのとき、前のように動けなくなっていたスズ子は、三尺四方に押し込められた戦時中のように、あまり動き回らずに「東京ブギウギ」を歌っている。もっと自由にもっと楽しくと、羽鳥に言われて歌ってきたが、いつしか、動かなくても心に響く歌が歌えるようになっていた。最後の「東京ブギウギ」こそが羽鳥との本当の別れであり、歌い終えたスズ子は静かに家族との団らんに帰っていくのである。散り散りになった笠置シヅ子の鏡の破片は、福来シヅ子の像に変化し、家という像を結んだ。 メインライターの足立紳は、彼が脚本を書いた『百円の恋』(2014年)や脚本と監督をやった『喜劇 愛妻物語』(2019年)、『雑魚どもよ、大志を抱け!』(2023年)などで、まだ何者にもなっていない、エネルギーを持て余しくすぶっている人物のうだうだした感じを描くことに才を発揮してきた作家である。それゆえ、大スター・スズ子の栄光よりも、神格化されていない、林や旗の書いた「下品」や「野人」と思われる部分やら、きっとあったであろうしょうもない部分(言い換えれば「親しみやすい」)を膨らませていたように感じる。そうすることによって、笠置シヅ子に興味を抱かない層にもアプローチできたのではないだろうか。 たとえ、モデルと違う部分があったとしても、この手のモデルありのドラマは、興味を持てば、残された自伝や伝記を読んで知識を得られる。読んだ人が知識を増やし、そこからめいめいを想像をふくらませることで、モデルの人の記憶の寿命も伸びる。それで十分なのだと思う。ネットに飛び交う断片だけで判断しないで、気になったらぜひとも全文をきちんと読むことをおすすめする。 筆者なんかは、旗の原稿に「自分の部屋に大仕掛けの仏壇を設けて、愛人と舎弟の霊に朝夕香華を手向けている(後略)」とあったので、この大仕掛けの仏壇とやらを再現してほしかったと思うばかりなのである。
木俣冬