すぐ裸になる踊り子にお飾りの経営者…「ストリップを取り締まる警察」と「儲けたい劇場」の壮絶な「いたちごっこ」
はじめての懲役刑
アジアで最初の五輪が東京で開かれたのが64年10月である。その5ヵ月前の5月20日、一条は岐阜のセントラルミュージック劇場で逮捕され、懲役3ヵ月、執行猶予2年の判決を受けた。初めての懲役刑だった。 「徐々にアソコを出さないとお客さんが満足しないようになりました。隠したままでは、『ケチなことすんな』ってやじられる。そんなんでだんだん、本人もやりづらくなって、劇場も全部見せる子しか使わなくなる。いつしか全員が特出しになったんです」 東京五輪の喧噪をよそに、一条の関心は客を喜ばせることにあった。人気も高まり、稼ぎがよくなると、さらにサービスに熱が入り、思い切って「見せる」ようになる。それが「わいせつ基準」にひっかかる。一条は五輪直後の11月にも千葉で逮捕され、懲役5ヵ月、執行猶予3年を言い渡された。執行猶予付きの懲役刑は2回となった。 根が素直なのか、正直なのか、一条はいつも、警察の調べに真面目に応じていた。容疑を否認したり、黙秘したりはしていない。 「警察の人と仲よくなって、すぐに答えちゃう。だから、『さゆりちゃんは正直や』と言われたからね」 正直というより、罪をさっさと認め、舞台に復帰することを優先させた面もあるだろう。
「逮捕前提」のシステム
公然わいせつ容疑で踊り子が逮捕され、劇場経営者が狙われるようになると、「パクられ屋」「パクられ社長」と呼ばれる者を置く劇場も増えた。本物の経営者とは別の人物を表向き、経営者に据えるのだ。「パクられ屋」が逮捕されても、劇場の経営には影響しない。劇場の生きる知恵、生き残り策だった。踊り子や「パクられ屋」が逮捕されても、よほどたび重なる違反者以外は略式起訴され罰金を支払って終わりだった。 捕まった踊り子の取り調べ中の差し入れや保釈金、そして罰金などの費用は劇場が負担するシステムができていた。人気の踊り子が保釈されたときには、劇場は慰労金を渡し、時には慰労会さえ開いた。踊り子の面倒を十分にみない劇場には、事務所が踊り子を出演させない。1種の踊り子保護制度ができあがっていく。 実際、一条が逮捕されるたび、保釈金など一切の費用は劇場側が支払った。人気の高い踊り子を出演させれば、劇場側はそうした「保障」をしてでも、十分に儲けられた。劇場は警察の手入れを前提としたシステムを作り上げていった。 『「昼間から一升瓶を抱えて…」すさみきった「伝説の踊り子」を「ふつうの板前」が救えた理由』へ続く
小倉 孝保(ノンフィクション作家)