富士山と宗教(4)江戸八百八町に八百八講、庶民が熱烈支持した富士山信仰
富士山を模して造られた富士塚。1780(安永9)年に江戸高田の行者、藤四郎が造ったのが最初とされる。神社の境内などに盛られた人工の山。富士山と同じ溶岩の山肌に登山道もある。富士塚は関東を中心に確認されるが、その多くは都内に存在している。江戸八百八町に八百八講、講中八万人……当時は江戸のすべての町に富士講があり、講員は8万人にのぼった。江戸時代中期から末期にかけて隆盛を誇った富士講は、江戸の庶民が支持した民間信仰だった。
ファッションの街にたたずむ富士塚
東京オリンピックに向けて建設が進んでいる国立競技場の西南、JR千駄ヶ谷駅近くの閑静な街に鳩森(はとのもり)八幡神社はある。JR原宿駅からも近く、周囲にはファッション関係のビルや店舗、カフェなどが並ぶ。鳥居をくぐると境内が広がり、子供を連れた母親たちが集っておしゃべりをしながら子供を遊ばせていた。 この鳩森八幡神社の一角に東京都の有形民俗文化財に指定されている「千駄ヶ谷の富士塚」がある。東京都の説明書きによると、この富士塚は寛政元年(1789)の築造といわれ、頂上近くに富士山の溶岩が配され、江戸築造の富士塚の基本様式を示している。大正12(1923)年の関東大震災後に修復されているが、築造時の姿をよくとどめており、江戸中期以降、広く庶民の間で信仰された富士信仰を理解する貴重な資料だという。
熊笹などが生える千駄ヶ谷の富士塚には、やや急な勾配の、人が一人歩ける登山道が作られていた。登るとすぐに木造の里宮があり、さらにゴツゴツした岩を配した塚を登っていくと頂上に奥宮が安置されている。烏帽子岩や金明水などと書かれた札が貼ってあり、洞窟があり、中に身禄の像が安置されていた。身禄は、富士講中興の祖といわれ、享保18(1733)年に富士山で31日間の断食修行をして亡くなった。 その教えは広く江戸庶民に布教され、富士講の爆発的な人気につながった。千駄ヶ谷の富士塚の頂上に立つと、眼下に境内が見渡せ、周囲には住宅や高いビルが建ち富士山は見えない。しかし、江戸時代には、富士塚の頂上から富士山が見渡せたに違いない。かつては地元の講社によって維持されてきたのであろう千駄ヶ谷の富士塚だが、鳩森八幡神社によれば、今は地元に講社はなく、富士塚は鳩森八幡神社で管理、維持しているとのことだった。