富士山と宗教(4)江戸八百八町に八百八講、庶民が熱烈支持した富士山信仰
江戸の富士講はどのように営まれたのか
江戸時代、多くの江戸庶民が富士山に登りたいと願ったが、ほとんどの人は登ることができなかった。そこで富士登拝の疑似体験をするために造られたのが富士塚だった。 一方で江戸八百八町に八百八講と言われたように、江戸の町ごとに講が組織され、富士山に実際に登るための資金が集められた。富士山に登る人がくじで選ばれ、選ばれた者は代表者として富士山に登ることができた。講社は「公の組織」。富士山に登る人は、町の人たちの願いを聞き、その願いを抱いて富士山に登った。 その資金は、町の人々のカンパに加え、裕福な商人などが大口の資金を提供し、さらに浄財などが加えられたものだという。そのため富士登拝の行程でお金を何に使ったのか、「大月で昼食代一人十六文七人分」などと事細かな帳面がつけられ、そうした帳面を見ることで当時の富士登拝の様子を伺い知ることができるという。 講社一行は、主に甲州街道を歩いて高尾に至り、高尾山で滝を浴び、ここから精進潔斎に入った。高尾山の頂上からは富士山が見える。高尾山には富士浅間社があり、富士山を遥拝する富士道の拠点でもあった。 高尾山で精進潔斎し、富士山を遥拝した一行は尾根伝いに歩き、そして相模湖の弁天橋に至る。相模湖から大月を経由して富士吉田に入り御師の家で一泊し、北口本宮冨士浅間神社に参拝して富士山に登った。 基本的に来た道をそのまま帰るのが正式なルートだが、予算が潤沢な講社は、富士山の頂上まで登った後、8合目まで同じ道でおり、8合目から富士山の東側、須走におりた。登った道と異なる道を下りるのは「山を割る」と言って嫌われたが、8合目まで同じ道で下りれば山を割らない。 富士山北口からのぼり、東口におりて下山祝いをした。帰路は、南足柄の最乗寺でお参りをし、さらに大山阿夫利神社に詣でた後、少し足をのばして江ノ島に出向き、品川を通って帰った。ただし、これは資金豊富な講社の豪華コースだという。 初心者もいる富士登拝のメンバーを率いるのが先達(せんだつ)と呼ばれるリーダーだ。先達は、富士登山の熟練者であり、そして宗教上の指導者でもある。富士講の人々は今も白装束をまとい、金剛杖を手に鈴の音を響かせながら「六根清浄、お山は快晴」と唱えながら富士山に登る。 唱えながら登るのは、声を出すことで肺を動かし、山酔い、高山病を防ぐ意味があるという。また、休憩する時は、立ったまま金剛杖を胸に当てて下を向き、息を吐き切って力を抜く。そうすることで膨らんだ肺を萎ませることができるという。一つ一つの行為に信仰的な意味と富士山に登る知恵が含まれているのだ。