永井美奈子アナ、フリーになって感じた力不足 ひな壇で埋もれて、「私は平凡で、カスカス」
狛江市(東京)に住んでいたのですが、急いでオンエアで着られる服を着て、車を運転して向かって。どうにか間に合いましたが、コマーシャルの間にお化粧を足していって、番組の最後に顔が完成していました(笑)。 こういうエピソードはたくさんあって……。この前も娘と2人で韓国に行ったんですけど、私は何度も海外に行っているのに空港の事務手続きが苦手で。娘のほうがしっかりしていて、「なんで私が貴重品を預かって先導しているの?」と突っ込まれました(笑)。 ■体温が1度下がる感覚 ――アナウンサーとして有事でも冷静沈着に伝えていた印象があります。 普段はすっとこどっこいでおっちょこちょいなんですけど、仕事で緊急事態のほうが冷静になるんですよね。体温が1度下がる感覚でした。阪神・淡路大震災、松本サリン事件、オウム真理教の幹部逮捕など大きな災害や事件が入ってくると、予定していたニュースの台本が全部飛びます。報道フロアはみんな騒然となっていましたが、不思議と冷静でしたね。 ――日本テレビに8年半在籍した後、1996年9月にフリーアナウンサーに転身しました。 日テレで何度も逃げ出したい時はあったんです。入社して仕事ができなかった時がそうでしたし、人気だけ先行して居心地が悪くなった時もフリーになりたいなって。でも、今辞めたら逃げることになる。8年半続けて認めてくださる方が増えて居心地が良くなった時、フリーになることを決断しました。あとは体調を崩していたことも理由の1つです。今みたいにゆとりを持って有休をとれるシフトではなかったですし、学生時代はラジオのアナウンサーになりたかったので、外の世界を見たかったというのもありました。
――実際にフリーで活動されるようになって、いかがでしたか? 力不足を感じました。私って平凡な人間だったんで。大きな挫折もしていないし大きな成功もしていない。アナウンサーでなく、自分が主役になって何を話せるかといったら何も話せない。バラエティー番組に出てもひな壇の中で埋もれてしまうんです。勝負しようと思ったけど何も武器を持っていないなかで生き残れないと。スポンジでいえばカスカスだったので、もっとジタバタしていろいろなことを吸収しなければいけないと思いました。英会話の専門学校に通ったり、慶大大学院に行ったり……。全然頭は良くないんですけど(笑)、必要な期間だったと思います。 ■24時間配信ライブでの苦労 ――著名人のインタビュー、エッセーの執筆、朗読など様々な活動をしていますが、クラシック音楽イベント「霞町音楽堂夏Fes.」(略称・おんなつ)のプロデュースを手掛け、今年で5年目を迎えます。どのようないきさつで活動に携わったんでしょうか? クラシック好きの夫がクラシック専門の音楽ホール霞町音楽堂を始めたのがきっかけでお手伝いしていたのですが、2020年に新型コロナウイルスの大流行で、コンサートが世界中でなくなり、音楽家の方たちが職を失って。私は「24時間テレビ」を経験していたので、24時間配信ライブをやれば話題になると思って動き出しました。 でも、まぁ大変でした(笑)。企画書、音楽家の出演交渉、契約書の手続き、配信のタイムキーパー、当日の司会、カンペ出しを全部やらなきゃいけない。恐ろしいほど忙しくて、途中で「私は何でやるって言ったんだろう」と……(笑)。でも無事に終わったら、音楽家の方たちに「ありがとう」と声をかけていただき、チケットを販売してくださったぴあの社長にも「歴史に残る偉業だよ」と褒めていただいて。凄くうれしかったですね。