「たくさんの本を読む」よりずっと効果的…賢い子が育つ家庭が"読書のあと"にやっている"親子のやりとり"
■間違えずに読めることも大切だけど… 「読めているのに、なぜ読めない子になるの?」と思われるかもしれません。ここで「読む」ということばの意味をもう少しほり下げてみましょう。 音読をする際、ことばの読み方やイントネーションを正確に発音することは大切です。 流暢(りゅうちょう)に文字や文章を読めているのは、これらができている証拠でもあります。音声で表現するためには、間違えずに読もうとする意識も欠かせないものです。 一方、「読む」という行為は、音声だけの問題にとどまりません。 例えば、物語であれば登場人物の気持ちの変化に気がついたり、説明文や評論文であれば文章の構成や展開を掴んだりすることも大事になりますよね。これは声に出してあらわすこととはまた別問題です。 ややこしいのは、どちらも「読む」という同じ言い方をすることです。 もちろん、これらは明確に区別できるものではありません。音声にできるということは、内容理解をふまえていることも当然考えられるでしょう。 物語であれば、中心人物が誰かに傷つけられたり、裏切られたりすることがあります。気持ちが落ち込む場面の台詞(せりふ)であれば、明るい声では読まないですよね。 物語の流れが分かっていれば、時間や空間の移動をともなう場面の区切り目では、少し間をとることもあるかもしれません。内容や形式の理解が読むことに必ず反映されるはずです。 けれども、ただ音声を聞いただけでは、本人がどのように理解を深めているかは正確にわからないものです。 ■「すらすら声に出して読む」が目的になっている 世の中には「音読のプロ」もいます。すばらしい音読は、人の心に訴えかけるものがあります。当然、本当に上手な読み手であれば、内容や形式を正しく理解できていることが前提となるはずです。 深みのある物語の音読には、登場人物一人ひとりの背景を考慮する繊細さも求められるでしょう。 でも、どんなに上手な音読を耳にしたとしても、子どもはその表現意図までは考えが及ばないこともあるでしょう。だから、子どもにしてみればそれらしく声に出して表すことが「読むこと」だと自然に学習している可能性もあるのです。 ときに見られるのは、すらすらと音読しているのに登場人物の心情が掴めていなかったり、文章構成の意図がわからなかったりする子の存在です。 これは「読む」ということばの理解が一つの原因にもなっています。 すらすら読めるということは、裏を返せばそこにひっかかりがないということです。なぜなら、声に出して読むこと自体が目的になっているからです。 しかし、ことばの意味を慎重に吟味しようとすれば、「この台詞は、もう少し声の大きさを抑えて言った方がいいかな」、「場面の雰囲気を出すためにも、ここはゆっくり読もう」などと読み方を考えるはずです。 だから、むしろつっかかった方が読めているということもあるはずです。 慎重に子どもの「読む」という行為を解釈すれば、音読が上手な子は「文字を読めてはいる。でも、内容はわかっていないかもしれない子」とも言い換えられるのです。