人類学の視点から「発達障害」をとらえ直す。その先に見えた日本社会の奇妙さとは?
発達障害本ブームというべき昨今。書店には関連書籍が山と積まれ、新刊も次々と出版されている。そんな中、フィールドワークを通したユニークな視点でこの問題に切り込んだのが『発達障害を人類学してみた』だ。 【書影】『発達障害を人類学してみた』 著者の照山絢子氏(筑波大学准教授)に、人類学の視点を通した発達障害のとらえ方について聞いた。 * * * ――文化人類学者が発達障害をテーマとするとき、ほかの専門家と何が違うのでしょうか? 照山 発達障害だけにフォーカスするのではなく、それを通して日本社会を見るところが特徴だと思います。 ――というと? 照山 日本社会がどういうものかが、発達障害を通して見えてくるんです。 発達障害はもちろん医学的な概念です。代表的なものとしては自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠陥多動症(ADHD)、学習障害(LD)が挙げられるのですが、実はこれらの障害は目立ちやすい場合とそうでない場合があります。 例えば、無文字社会と呼ばれるような、読み書きがない社会や識字率が低い社会では学習障害であることは目立ちません。つまり、ある社会の期待があるから、それにうまく適応できないことが目立つという側面があるのです。そうすると、「日本社会は何を当たり前としているのか?」と考えることができます。 ――日本社会が当たり前としていることとはなんでしょうか。 照山 いろいろありますが、就労している状態をひとつの目標と考える傾向はあると思います。これは発達障害だけではなく、身体障害や精神障害でも同じで、日本の障害者政策のベースになっています。 具体的には、就労支援を経て、どれほどの人が就労したか、どれくらい長い間就労していることができたかが重要な指標になっている。この背後には、数字で把握しやすい成果を求める日本社会の文化的な背景があるのではないでしょうか。 実際、障害のある人々が就労できないことで経済的損失がいくらなのかを計算したり、支援の経済的な効果を測って、結果を検証したりする考え方があります。