ハリウッドデビューの西島秀俊が適役に 『サニー』が提示するAIやロボットの“希望”と“不安”
日本のドラマにはない『サニー』の独創的な発想
行方不明になったマサを演じる西島秀俊は、今回がハリウッドデビューとなる。ケイティ・ロビンスと、ルーシー・チェルニアクは、キャスティングの前に『ドライブ・マイ・カー』(2021年)での演技を知っていたこともあって、彼以外に考えられないと言うほどに西島を絶賛している。本シリーズで主人公に大きな喪失感を与え、どうやら大きな秘密を隠していたマサの役柄は、確かな演技力と年齢とともに魅力を増している西島が、確かに適任だと思える。 また、マサの母親でスージーの義母ノリコを演じているジュディ・オングも面白い。日本文化や京都のしきたりに詳しく、スージーにいろいろと助言を与えるが、それがいちいち面白いのだ。夫が行方不明になったことで、泣くことで心のデトックスを図るという「涙活(るいかつ)」イベントにスージーを誘うことになる。 この「涙活」というものは確かに実在するのだが、これは2013年頃から実業家が始めたもので、古い京都の文化であるはずもない。しかし、そのイベントにヤクザがやってきて、スナック菓子を配りながら悲劇に遭った参加者に取り入って見返りを求めようとするのを見たノリコは、「嘆かわしい……! 昔はお煎餅くらい配っていたのに、今じゃあんなものを」と嘆息するのである。確かに、暴力団がお菓子配りをする風習もあるにはあるのだが、「涙活」同様、日本文化のそこをチョイスするのかという、日本のドラマにはない発想が独創的である。 他にも、京都の旧家と見られるノリコの家に彼女と同世代の友人たちが集まり、フライドチキンを食べながら、何故かオープンワールドゲームらしきものをみんなで順番にプレイしているシチュエーションも異様だ。そしてそれらのことを、ジュディ・オング演じる着物を着込んだ京都のマダムが当然であるかのように説明するのが、かなりシュールで笑えてきてしまう。 新米バーテンダーとしてスージーと出会い、物語に関係してくる女性ミクシーを演じるアニー・ザ・クラムジーも印象深い。アニー・ザ・クラムジーは主にシンガーソングライターとしての活動で知られ、イギリスでの留学経験や英語力から、さまざまな分野でワールドワイドに活躍している人物。経験豊かな俳優陣のなかで、異色の雰囲気を纏っていて目が離せない。 音楽といえば、本シリーズのサウンドトラックも独創的だ。オープニングアニメーションに使用されている渥美マリの「好きよ愛して」を始め、『キル・ビル Vol.1』にも使用された梶芽衣子の「修羅の花」、劇中でパーティーのBGMになっている荒木一郎の「いとしのマックス」など、昭和歌謡が中心となっている。他にもサウンドトラックのなかには、渡哲也の「東京流れ者」、橋幸夫の「子連れ狼」がリストアップされていて興味深い。 面白いところでは、サニーが癒しのために見る映像の音楽が、細野晴臣の1978年のトロピカルな楽曲「最後の楽園」だったりするところは意外だ。テクノバンドのコスミック・インベンションの名前もあったりなど、日本の老舗中古レコード屋で海外のDJが、ジャンルにこだわらず古い楽曲を見つけ出すような攻め方をしているところも楽しみたい。 AI、ロボットテクノロジーが、爆発的な進化を遂げている現在。その速度があまりにも急なため、われわれは驚嘆すると同時に、法律や倫理の面で対応できていない部分や、これまで人間がやってきた仕事や役割が奪われることに、不安を感じる面もある。本シリーズはまさに、ロボットや人工知能が起こしたように見える凄惨なトラブルや、逆に心の穴を埋めてくれる相手になり得る状況が描かれていることで、希望と不安が同時に提示されているといえる。 本シリーズ『サニー』は、テクノロジーに対する待ったなしの問題と漠然とした期待の行方を、ある程度暗示するものとなるだろう。ありがたいことに、このドラマの題材が注目されているように、まだ日本は技術立国としての海外からのイメージがあるようだ。 しかし技術開発には本来、責任や倫理観がともなっていなければならない。新しい技術は、一歩間違えば、人類の進歩どころか悲劇を生み出す結果を生み出しかねない。そのあたりが焦点となるだろう本シリーズは、技術そのもの以上に、ものづくりにおけるモラルの面でも世界有数の立場にならなければならないということを教えてくれることになるのではないだろうか。
小野寺系(k.onodera)