小麦色の肌とナイスバディでクラリオンガールを務め…かとうれいこが振り返る「グラビア黄金時代」
「ハイレグで蛍光色のギラギラした水着に最初は凄く抵抗があって、結局ずっと最後まで慣れなかった。当時の自分の写真を見返しても、そういう顔をしています(笑)。でも、今にして思えば、そういう控え目な表情が世の男性方に”刺さった”のかもしれません」 【画像】美しすぎる…!かとうれいこの「現在の姿」…! 艶っぽい表情で少し恥ずかしそうに答えるのは、’90年代にグラビア界を席巻した、かとうれいこ(55)である。 彼女の芸能界デビューは一枚の写真がキッカケだった。短大時代に渋谷でカメラマンに声をかけられ撮影した写真が、当時イエローキャブの社長だった野田義治氏(78)の目に留まったのだ。’89年に第16代クラリオンガールに選ばれると、例年の5倍にあたる5万枚のポスターが作成される人気ぶりで大ブレイク。翌々年には、アサヒビールのイメージガールにも選ばれた。当時は水着姿の女性が企業広告を担った「グラビア界にとっては良き時代でもあった」と振り返る。 「あの当時、ビールメーカーのポスターは当たり前のように水着でしたから。海辺で水着を着た女性がビールジョッキを手にしていたら、男性心理を煽(あお)って効果的だったのかな?(笑) 今では考えられないかもしれませんが、私はあの頃が大好きでした。良き時代に青春ができたなと思うし、この仕事をしてこられたことを誇りに思っています」 ″平成最強グラドル″との呼び声も高かったが、かとう本人はFカップあった胸の大きさがコンプレックスだったと明かす。水着に抵抗があるなか、野田の説得を受けてグラビアに挑戦。たちまち世の男性の心をつかんでいった。「巨乳バカ一代」を自称する野田の慧眼(けいがん)は、確かなものだったのだ。 「ありがたいことに忙しくさせていただいて……。休みも3ヵ月に一日くらいで、移動の合間に仮眠する生活でした。当時のグラビアは『日本で撮るより海外に行っちゃおう』という時代でハワイ、グアム、サイパンなど最低月1回、多いと毎週のペースで海外撮影に行っていました。でも、私のスケジュールが空いていないから、一つのロケに3~4つの雑誌社が相乗りするような状況で、スタッフも目まぐるしく変わっていましたね」 給与システムは一般的な「給料制」。具体的な額について尋ねてみると、「秘密です。でも満足するくらいは貰えていました」と微笑んだ。 かとうにとってグラビアの仕事は必ずしも得意なものではなかった。それでも、15冊の写真集に14本のイメージビデオ出演をはじめ、数々の作品に携わってきた。忙殺されていた日々を乗り越えられた理由は自分への″ご褒美″だという。 「当時は友達と遊ぶ時間も彼氏とデートをする時間もなかったから、食べることくらいしか楽しみがなかったんです。グラビアはプロポーション勝負ですが、野田さんは『食べろ食べろ』と言うタイプで、あまり無理な努力をさせられた記憶がない。ロケ先で美味しいものを探したり、仕事終わりに頑張った自分へのご褒美で、焼き肉をバクバク食べていました。だからあの頃の私、ぽっちゃりです(笑)」 その後はグラビアに留(とど)まらず、バラエティ番組やドラマ、歌番組など、あらゆる仕事が舞い込んできた。バラエティ番組では、ウッチャンナンチャンやヒロミら、人気の若手芸人たちと共演する機会が多かったという。かとうは、当時の経験が今に活きていると回顧する。 「’90年代の芸能界はまさに″マルチタレント世代″でした。バラエティだろうが、ドラマだろうが、グラビアだろうが求められたことは何でもやる。それをやってきたから、今もいろいろなお仕事を貰えている面はあるのかな、と。当時のヒロミさんは今よりも尖(とが)った雰囲気でしたが、話すと凄く優しい方でした。人との接し方の参考にしていましたね」 ◆グラビア界からアメリカへ ’01年にプロゴルファーの横尾要(51)と結婚し、’03年に長女を出産。その後は芸能活動を休止し、米国ツアーに参戦予定の横尾を支えるべく、渡米を決意する。 ――しかし、アメリカ生活は想像以上に過酷なものだった。 「芸能の仕事は好きだったけど、夫を支えたいという思いと、家庭と仕事どっちつかずにしたくない、という二つの理由で芸能活動を休止しました。アメリカ生活はとにかく大変でしたね。広い国なので、空港からゴルフ場までの移動だけで半日かかることもあり、体力的にキツかった。あとは洗濯や料理などの家事をはじめ、すべて自分でしなければいけなかったので。マネージャーさんの有り難さが身に沁みた30代でした」 帰国後の’12年、子供が小学生になった際に偶然テレビ番組からオファーがあった。絶妙のタイミングに縁を感じ、芸能界復帰を決断。しばらく離れている間にテレビ局もスタッフの年齢層や現場のやり方がガラリと変化し、最初は戸惑ったというかとうだが、今ではその変化を受け入れながら、仕事にプライベートに充実した日々を過ごす。 「’90年代の面影がなく、自分にとっては″新しい芸能界″だったので『私にできるかな』という心配はありました。でも、変化を楽しみながら順応していければいいかなってプラスにとらえています。子供が芸能界を志望したらですか? もう成人しているので止めませんよ。ただ、グラビアは主人が反対するかな(笑)」 かとうが最後にグラビアの仕事をしたのは26年前。それでも、現在も数多くの出版社から写真集のオファーが届いているというから驚きだ。 「今でもオファーを頂けるのはやっぱり嬉しいですね。良いタイミングで、素敵なお話があればという感じでしょうか。再びフライデーさんに呼んでいただくことがあれば、とても光栄です」 グラビア旋風を巻き起こした女王には、令和でもその名を轟(とどろ)かしてほしい。 『FRIDAY』2024年5月10・17日号より
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