大阪・堂島のコメ相場を舞台に大暴れ! 日本最強の相場師 本間宗久(上)
堂島・コメ相場を舞台に「出羽の田舎者」から、「出羽の小天狗」に
宗久の赴く先は天下の台所、大阪・堂島でしかない。全国からコメ相場の腕自慢たちが集まってきて、切った・張ったの大勝負が演じられる堂島で、宗久は初め、「出羽の田舎者」と軽くあしらわれていた。だが、しばらくすると、「出羽の小天狗」と恐れられるようになる。連戦連勝するうち、堂島の猛者たちが一目置くようになる。位階勲等やキャリアなどは無用の世界、勝ち星を読み重ねてさえいけば、「出羽の小天狗」から「相場の神様」と崇拝される日も近い。 宗久がコメ相場の本場、堂島で勝ち名乗りを上げるに当たっては、単なる生まれながらの才覚だけでは難しい。若き日の修業が宗久を江戸300年を通じて日本最強の相場師に仕立てたのである。 宗久は若き日、相場に失敗した若い経験を持つ。敗残兵さながらに人目を避けて帰郷した宗久は、酒田の曹洞宗海晏寺(かいあんじ)の大徳智間和尚を訪ね、座禅を組む。和尚から「風幡(ふうばん)」の説を聞かされる。 「2人の僧が幡(旗)の動くのを見て言い争いを始めた。1人は旗が動いているといい、もう1人は旗ではなく風が動いていると言い張る。そのとき高僧が現れて『旗が動いているのでもない。風が動いているでもない。あなたたちの心が動いているのだ』と一喝する」 そのとき宗久は相場に開眼したと伝えられる。<(中)に続く> 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>
本間宗久( ほんま そうきゅう 1717-1803 )の横顔 享保2年(1717年)、本間原光の5男として山形市酒田で生まれる。子供のころから「神童」のほまれが高く、父親に似て向こう意気も強かった。寛延3年(1750年)本間家の第2代当主、光寿から家業を託されると、米相場で大当たり、本間家の財産は急膨脹。宝暦5年(1755年)大阪堂島に向かい、「出羽の小天狗」と呼ばれる。享和3年(1803年)没。『宗久翁秘録』(三昧伝)はいまも読み継がれている。