「この年になって、まさか新人」76歳で演歌歌手デビューした“新人”は『カラオケ747』の会長だった
母とともに青酸カリで心中しようと…
茨城県下館町(現・筑西市)の6人きょうだいの次男として生まれた。父母は、韓国にルーツを持つ、在日1世だった。 「まったく働かない。お酒を飲んでいる姿しか見たことがなかった」。金嶋さんが振り返る父の姿は、酒におぼれたあげく、母に手を上げる……そんな思い出したくない光景ばかりだったという。 「母が朝から晩まで必死に働いて、私たちきょうだいを育ててくれました。おのずと、いつか母を幸せにしてあげたいという思いが募っていった」 母に親孝行したい─、極貧の中、その一心だけで生きてきた。ところが小学3年生のとき、 「『母ちゃんはもう疲れた。母ちゃん一人が死んだら、残ったおまえたちが父ちゃんにいじめられる。これを飲んで一緒に死のう』、そう母から告げられ、青酸カリを混ぜた水を差し出されました。姉がそれを口元に近づけると、私は慌てて制止した。『生きていれば、いつかいいことがある』。母に叫んだことを覚えています」 母がまた同じことをするのではないかと、その後、怖くて眠ることができなかった。一家の行く末は、風前の灯火だった。
「神様は本当にいるんだな」
ある日、しょうゆを買うために隣り村まで歩いていると、畑の中に数枚の泥まみれの千円札が散乱していた。 「神様は本当にいるんだなって思いました。ただ、このお金は神様が私の懐に入れるためにプレゼントしてくれたのではなく、『出世払いをしろよ』ということだと思ったんですね」 お金を渡すと、母は金嶋さんをギュッと抱き締めたという。拾ったのは数千円だったかもしれない。だが、結果的に拾ったものは命だった。神様からのへそくりがなければ、「今の自分はいません」。そう金嶋さんは微笑む。 高校生のとき、父が肝臓がんで亡くなった。風向きが変わった。 卒業すると、母に楽をさせるため、会社の寮に住み込みながら働くことを決意する。 「いつも端のほうでごはんを食べていた姿を覚えています」 こう懐かしそうに振り返るのは、金嶋さんの妻・みどりさんだ。当時、金嶋さんはみどりさんの兄が経営していた大衆食堂の常連で、美容室で働いていたみどりさんは休日にこの兄の店に時折顔を出していた。 2人は惹かれ合うようになり交際をスタートするが、みどりさんは当時16歳。両親の反対にあい、破局してしまう。 しかし、2人の絆は切れることはなかった。1年後、再び交際を始め、自然の成り行きで共に暮らすようになる。 「運命めいたものを感じたんです。主人は、誠実というかまじめ。そういう人とだったら、どんな苦労があっても、『私はついていける』と思ったんです」(みどりさん) 「両親の反対を押し切ってまで私を選んでくれた。私は、『この人を社長夫人と呼ばれるような人にしないといけない』と決めました。彼女の覚悟が、私を燃えさせたんです」 金嶋さんが20歳、みどりさんが18歳のとき、2人は生涯の伴侶となる。勤めていた会社を辞め、神奈川県相模原市でバラック小屋を改築した焼き鳥店を、手探りで始めた。 「主人はギターを抱えて、時折、小林旭さんの歌を歌っていたりしました。まさかこのときは、後に歌手になるなんて思っていませんでしたが(笑)、歌が好きだった姿は、昔も今も変わらないです」(みどりさん) 見よう見まねで始めたこともあり、なかなか焼き鳥店が波に乗ることはなかったと回想する。4畳半ほどの狭いアパートで2人暮らし。希望以外には何もない。 「私は、とても貧困な家庭で育ちましたから、遊ぶような道具を持っていなかった。ラジオから流れてくる三橋美智也さんや春日八郎さんの歌声が、数少ない私の楽しみだった。今思うと、子どものころからずっと歌に助けられていたんですね」 希望の傍らには、いつも歌があった。