「負け犬根性が蔓延…これじゃ巨人に勝てるはずがない」広岡達朗は“弱小ヤクルト”をどう変えた? 92歳の告白「私が若松勉を叱責したワケ」
1978年、監督としてヤクルトスワローズを球団初のリーグ優勝、そして日本一に導いた広岡達朗。多くの選手たちの証言を基に名将の素顔を探ってきた本連載は、いよいよ広岡への取材からその内面に迫る新章に突入する。92歳になった広岡はどんな毎日を過ごし、自身のヤクルト監督時代をどう振り返るのか。「広岡達朗編」の第1回では、当時のチームの中心だった若松勉とのエピソードを繙いてもらった。(連載第33回・広岡達朗編の#1/#2へ) 【写真】「監督・広岡達朗、コーチ・長嶋茂雄」1978年の日米野球”バッチバチの2人”の緊張感がスゴい…巨人の名ショートだった「現役時代の広岡」や若松勉との師弟関係も見る(全15枚)
電話越しに繰り返した広岡達朗との対話
2024(令和6)年2月、広岡達朗は92歳になった。この1年余り、定期的に広岡に話を聞き続けている。 「この年になると、いろいろ不具合が生じてくる。でも、それが自然の摂理。人間とはそういうもの。決して逆らってはいけない。だから、耳がちょっと遠いので、ゆっくりと大きな声で話してほしい。早口でギャーギャー、ギャーギャー言われると、何を言っているのかわからんから、その点は、どうぞよろしく」 広岡への電話取材の冒頭では、必ずこのように念を押される。したがって、普段よりも大きな声でゆっくりと、ハッキリと質問を重ねるのだが、それでも「えっ、何? もう一度、ゆっくりと大きな声で」と言われることは何度もあった。だからこそ、対面での取材を求めるのだが、返事はいつも同じだった。 「妻の体調が悪くて、いろいろ世話をしなけりゃならん。家の中もとっ散らかっていてとても人を呼べる状態じゃない。おまけにひざも悪くて、外出もままならん。悪いけれど、電話で頼む」 こうして、電話でのやりとりが続くこととなった。多いときには週に1~2回程度、少ないときでも、月に数回は広岡の携帯電話、もしくは自宅の固定電話に架電した。何度も電話しているのに、最初の頃は「え、誰?」といつも尋ねられた。名前を告げ、用件を告げても、あまりピンと来ていないようだったが、それでも、話を続けているうちに当時の思い出話が次から次へと口をついて出てくる。
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