【連載】特攻兵の「帰還」 戦後79年えひめ ①女学生の手紙
1945年5月4日、米駆逐艦に戦闘機で突入し死亡した睦月島(松山市)出身の陸軍第60振武隊員、堀元官一さんの遺体が、当時の米軍によって一時収容されていたことが分かった。コックピットにあった堀元さんの遺品とされる品が当時の米乗組員の家族によって長く保管されており、家族は6月14日に松山市を訪れ、堀元家に遺品を返還する。 愛媛新聞は米関係者と協力し、堀元家と米乗組員の家族を橋渡しして今回の対面につなげた。79年の歳月を経て堀元さんの「帰還」が実現するきっかけとなったのは、ある女学生の手紙だった。(中井有人) ■ 米からの便り 「堀元官一さんについて情報はありませんか」 遠く米国ミネアポリス、ミネソタ大ツインシティズ校で、日本語の上級講師を務めるマーニー・ジョレンビーさん(55)から愛媛新聞にメールが送られてきたのは、2023年5月末だった。 事情は大体次の通りだ。 「1年前、私は近所の男性から昔の手紙を託されました。亡くなった彼の大叔父が保管していたものです。その人が太平洋戦争の沖縄戦で船に乗っているとき、日本の特攻隊員が甲板に不時着しました。すでに亡くなっていましたが、胸ポケットに手紙があり宛名から堀元官一さんの名が判明しました。抜き取った手紙をいつかご遺族に返したいと願っていたそうです。私が調べたところ、堀元さんは愛媛県のご出身です。ご遺族が今、どこに住んでいるか分かりませんか?」 ジョレンビーさんは、日本語で小説を出版しているほどの語学力の持ち主だった。その専門性を買われて手紙を託されたのだろう。作家の顔を持つ彼女は一連の経緯に大きな関心を抱き、小説の題材にもなるのではないかと思いをめぐらせて、日本の国会図書館で戦没者名簿を調べ上げたという。 彼女は堀元官一さんの名前を探り当て、愛媛出身であることを確認した。そこには特攻隊である陸軍第60振武隊員として1945年5月4日に沖縄周辺の洋上で戦死したと書かれてあった。愛媛県遺族会や愛媛県護国神社に問い合わせ、堀元さんが睦月島の生まれであるところまで突き止めて、遺族の行方を探していた。 愛媛新聞のデータベースで検索すると、堀元官一で1件のヒットがあった。1986年5月19日付朝刊。陸軍少年飛行兵を慰霊する全国大会が、松山市道後のホテルで18日に開かれたという記事だ。 そこには、こう書かれてある。 「全国大会は(昭和)二十年五月十一日、第六十振武隊の特攻で戦死した温泉郡中島町睦月出身、堀元官一さん(当時十九歳)らの霊を慰めるため四国で初めて開かれた」 死亡日が異なるが、ジョレンビーさんの情報と整合する。米国から寄せられた話は信憑性が高いように思えた。後で知ることだが、日本の文献は堀元さんの死亡日が5月4日のものと11日のものが混在している。 一方で、堀元さんが米艦船に不時着したとの情報は、データベースやインターネットの検索では見当たらなかった。 ■ 英文の謎 ほどなく、堀元さんの胸ポケットにあったとされる手紙の写真がメールで送られてきた。それを見た瞬間は驚いた。なんと手書きの英文だったのだ。 Public Girls Highschool Sakuramachi,Tokyo December 5, 1944 To a brave warrior of the Divine Eagles.Kanichi Horimoto, Daily the war has been becoming more and more violent. What can we say to a God of the Divine Eagles as he goes to the field of decisive battle? We cannot express our gratitude. I beg of you that you destroy the hated Americans and British with peace of mind and us fears for the future because , imbued with the ”never-cease attacking” spirit of the Kamikaze Special Attack Corps, we will steadfastly increase our production until the Greater Japanese Empire is crowned with the garland of victory. Kato Shikako 3rd Class 1st Year 日本語訳は、おおむねこんな感じだろうか。 東京都立桜町高等女学校 1944年12月5日 勇敢な神鷲、堀元官一さま。 戦争は日増しに激しくなっていますね。特攻隊として決戦の地に赴く神鷲に、何と言葉をかけたらよいのでしょう。感謝を言葉にできません。安心して憎き米英を倒すようお願い申し上げます。将来への不安はありません。なぜなら、私たちにも「撃ちてし止まん」神風特攻隊の精神が染み込んでいるからです。大日本帝国が勝利の栄冠をつかむまで、しっかり生産を増やしてまいります。 1年3組 カトウシカコ 東京の女学生からの慰問の手紙と思われる。当時の高等女学校1年は12、13歳だ。カトウさんと堀元さんに面識があるかどうかは分からないが、あらたまった文面だけに、面識はなく学校行事として送られた手紙のような気もする。 しかし、よりによって特攻隊員に当時の敵性語である英語の手紙を送るだろうか。 ジョレンビーさんは2023年6月14日、松山市の愛媛新聞社を訪れ、手紙の現物を見せてくれた。縦20数㌢、横15㌢ほどの大きさの紙2枚に筆記体の英文が書かれてある。手紙というより紙片に書かれたメモのように見える。特攻隊員に送るにはあまりに雑然とした印象だ。 これは英訳のメモで、日本語で書かれた原本が存在するのではないか、という考えに行き着く。堀元さんが米の艦船に特攻を仕掛け、船に残された遺体から手紙が発見されたのかもしれない。それが英訳されて米国で広まったのではないか。最初の話とは幾分異なるが、そう考えるのが自然な気がした。 同時に、いくつもの問いが頭の中を駆け巡った。堀元さんの遺族は、手紙のことを知っているのだろうか。カトウシカコさんは存命なのだろうか。米国に記録は残っているのだろうか―。 日米をつなぐ、不思議な縁をたどる作業の始まりだった。
愛媛新聞社