要領のいい人が“おいしい思い”をする世の中に絶望… 人々を「カルト宗教」にいざなう“公正世界コンプレックス”という名の危うい概念
世間から「問題がある」とされている宗教に、なぜ入信するのだろうか。 多くの人にはピンとこない話かもしれないが、“内側”にいた人たちの証言からその体験世界をのぞけば、誰もが「狂信」する可能性にドキリとするかもしれない。 本記事連載では、宗教2世の「当事者」であり、問題に深く関心を持つ「共事者」でもある文学研究者が、宗教1世と宗教2世へのインタビューをもとに、彼らの「狂信」の内側に迫る。 今回は、彼らを入信へといざなった「公正世界コンプレックス」を紹介する。 ※ この記事は、文学研究者・横道誠氏による書籍『あなたも狂信する 宗教1世と宗教2世の世界に迫る共事者研究』(太田出版)より一部抜粋・構成。
なぜ世界は公正ではないのか
人の言動に対して、公正な結果が返ってくるものだという考え方は、心理学の世界ではひとつの「認知バイアス」、つまりものごとを把握する上での偏見として知られており、「公正世界信念」と呼ばれる。あらゆる正義は最後には報われる、あらゆる邪悪は最後には罰せられると信じることだ。 現在の日本では自己責任論が蔓延(まんえん)し、誰かの失敗はその人がすべて負うべきと主張する人がたくさんいるが、これも公正世界信念のひとつの表れと考えることができる。 たとえば夜道で強姦された女性がいれば、そんな時間に女性がそんな格好でひとりで歩いていたからだ、といった「被害者非難」がなされる。実際には責任は当然ながら加害者にあるのに、悲しいことに被害者自身がこのひどい論理を内面化して、じぶんのせいだったと考えてしまうことは珍しくない。 宗教1世と対話していて、私は、彼らは公正世界信念を素朴に信じているというよりも、世の中が公正なものだと信じたいのに、そうとは思われない場面に出会って絶望した人たちが多いのではないか、と感じるようになった。
勧誘に乗せられやすい「公正世界コンプレックス」
まじめに生きていれば、ふだんのおこないが承認され、公正に評価されたいと願うのは当たり前のことだ。罪を犯していない周囲の優しい人々が、どうか最後まで幸せに生きていってほしいと願うのは、まったく正当な願いだ。世界とはそういうものであってほしいと期待する人がたくさんいることは、けっして不思議ではない。 それなのに、要領よく生きているふまじめな者が、「おいしい思い」を堪能する場面は多々ある。悪が正義に勝ったと感じさせる事例は事欠かない。だから「本来の世界」としての「公正世界」を回復しなければならないと、思うようになる。公正ではない現状の世界を否定し、公正世界信念を保持したいというこの心境を表すべく、私は「公正世界コンプレックス」という新たな概念を提唱したい。 「こういう世界はまちがっている」「じぶんの人生はほんとうはこうではなかった」と納得できないでいると、宗教団体からの誘いが心に迫ってくる。典型的には、以下のように勧誘される。 【あなたはちゃんと報われる。なぜなら私たちが信じている究極の存在は、あなたのことをちゃんと見ておられるから。あなたの人生がこのままでいいなんて、そんなことはあるはずがない。あなたたちのように苦闘している人が見捨てられて良いはずがない、私たちの宗教を信じれば、あなたこそが、そしてあなたたちこそが、ほんとうに幸せになるのだということが、今世では苦しい状況にあるとしても、来世ではいちばん幸せになるのだということが、ちゃんとわかるはずです。】