コンピューターゲームはスポーツか、ビョーキか。eスポーツとゲームと依存
眼と耳と指と脳の一部がサーキット
コンピューターゲームは、たとえば格闘技ゲームひとつを取り上げても、瞬間的な判断力と反射神経による競争があり、勝負には運がつきまとい、そこに登場するキャラクターは模擬であり、また映像と音響のめまいがするような演出がある。つまりカイヨワが設定した遊びの四要素をすべて備えているのだ。初めは暇つぶし程度に気楽にやってみる人も、次第に没頭し、依存症となる率も高い。 これまでのゲームとまったく異なるところは「電子情報」によっていることである。 それはボードやカードやコマ(将棋・チェス)やサイコロのような不変の「物」ではなく、視覚、聴覚、触覚を融合する即時的な刺激作用である。人間の脳はもともと、電子を伝える可変的な回路であるから、電子情報の刺激にはダイレクトに反応する性質をもっている。 眼と耳という感覚器官と、指という最小限の肉体が、脳の一部とサーキット(循環回路)して、過熱没頭の状態におちいるのだ。だからハマりやすく、ヌケにくい。それがスポーツとして社会化し、名誉が絡み、金銭が絡み、さらに賭博性が絡めばなおさらである。 スポーツとは本来、脳の作業にかたよらないように、身体の大きな部分を使うことによる健全性を目的としたものだ。コンピューターゲームはきわめて局所的であり、eスポーツとは呼んでも、たとえばラグビーのような、全身を使うチームプレー、青春とアマチュアリズムの象徴のようなスポーツとは対極にある。不健全といわれても仕方ない面があるのだ。
依存と文化
人間は依存する存在である。若いころには音楽やアイドルに夢中になる時期があり、スピード狂になる時期もあり、非行グループに走る時期もある。しかし少しずつ免疫ができて克服していくものだ。日常的な家族関係、友人関係、師弟関係にも、大なり小なり依存性が存在する。いわば誰もが軽度の依存症なのだ。 また依存によって利益を上げ、社会を運営する機関もある。 ヨーロッパの征服者たちは先住民に武器を売って富(毛皮など)を得るのが常道であった。極北の民イヌイットには身体を温める酒を売ってアルコール漬けにした。アヘンを扱ったこともある。現在も似たようなことをしている国がある。禁酒法時代には酒を密売したアル・カポネが大儲けした。現代の非合法組織は麻薬を資金源とする。古来、為政者は土木建築の工事費をまかなうために富くじ使った。現代の公営ギャンブルも同様である。国家も、自治体も、企業も、似たようなことをしている。依存する人間がいればそれを利用する人間もいるのだ。 また人々の依存性に応えながら、迷いから救い出す者もいる。宗教者、思想家、教育者は大なり小なり、依存に応える力をもっている。辣腕の弁護士やコンサルタントやスポーツのコーチも、カリスマ店員もそうだろう。 学術や芸術は、依存症と紙一重の天才の没我的な努力によって発展するものだ。人間の文化には「依存力」が組み込まれ、それに対する「免疫力」も組み込まれている。