コンピューターゲームはスポーツか、ビョーキか。eスポーツとゲームと依存
ゲーム好き
実は僕は、かなりのゲーム好きだ。 子供のころは将棋が好きだった。大学生のときは麻雀にハマった。外国にいたときはチェスをした。今は囲碁に多くの時間をさいている。コンピューターゲームも、その先駆けとなったスペースインベーダーなどにはけっこうお金を使ったものだ。だからゲームに夢中になる子供や若者を批判できる立場ではない。それどころかゲームというものを、人生のかなり主要な本質的な部分だと考えている。 将棋や囲碁はすべて可視的なゲームで脳(読み)だけの勝負だが、麻雀やトランプや花札は伏せられた部分があり、サイコロを使ったゲームと同様、運に支配される。特に麻雀は脳と運との組み合わせで、その上お金をかける(大金をかけると捕まる)ので賭博性があり、ハマるとヌケにくい。僕らの学生時代には非常に流行し、ヌケるのに苦労した友人も多い。なぜか、学生運動のあと下火になったようだ。 今の学生に話を聞くと、子供のころコンピューターゲームにハマってヌケるのに苦労したというから、同じようなものだ。パチンコ、競輪、競馬にハマる人も多いが、これは賭博であってゲーム性は低い。いずれにしろ、こういったものは、健全な娯楽=遊びと不健全な依存症との間にあり、そのどちらに入るかは、ひとえに本人の意思によるのである。
「遊び」の四要素
ゲームは遊びであり、「遊び」といえば『ホモ・ルーデンス』を書いたヨハン・ホイジンガが思い浮かぶ。『梁塵秘抄』の「遊びをせんとや生れけむ」ではないが、人間は「遊び」をする動物であり、それは単に仕事の余暇を埋めるものではなく、文化文明の源でもあることを論じている。ホイジンガの影響を受けたロジェ・カイヨワは、遊びの四要素を「競争、運、模擬、めまい」と設定する。 競争:将棋や囲碁は頭脳力の競争であり、身体力の競争がスポーツである。小さいころは身体の競争が優位だが、学校に通いだすと頭脳力の競争が優位となる。そしてどちらも本格的になると、遊びの範疇を超えた人生の競争となる。 運:人生におけるかなりの部分が運に支配されていることは子供でも感じるものだ。カードゲーム(特にポーカー)や麻雀は運が大きく作用するだけに金銭をかける対象となりやすく、一線を越えると危険である。 模擬:昔、女の子は家庭生活の模擬ともいうべきママゴト、男の子は戦闘の模擬ともいうべきチャンバラごっこが定番だった。映画や演劇にもこの要素がある。現代のコスプレは大人の模擬ゲームか。 めまい:ジェットコースターを代表とするプレイランドのアトラクションはまさにめまいだ。映画や演劇にはこの要素もあり、特に音楽とダンスを主とするショー、イベント、祭りは、めまいを起こすような非日常の興奮を提供する。 そう考えてみれば、遊びとは、人生そのものと密接に関わる本質的な存在であることが理解できる。