誰も「プロ野球選手になるなんて思わなかった」 高校ではマネージャー→名門大入試は断念…湯浅京己(25歳)が“下剋上ドラフト”で阪神に入るまで
マネージャーだった男の決心…「ピッチャーをやる」
そんな裏方に徹していた男が自らの意志を明示したのは、秋の公式戦が終わってすぐだった。野球ができるほどまでに腰が回復していた湯浅が決心を口にする。 「ピッチャーをやる」 湯浅の言葉に、仁平が突っ込む。 「お前、サードだったじゃん。ピッチャーできんの? マックスなんぼ?」 「135くらいかな?」 「厳しくね? それくらい出るピッチャー、うちに結構いるしさ」 「でも俺、ピッチャーやるわ」 湯浅のピッチャー転向に懐疑的だった仁平に対し、その申し出に納得していたというのがコーチの岩永である。 「寮で湯浅と同じ部屋には、次の代でエースになる1学年下の衛藤(慎也)がいたんですけど、キャッチャーから転向した選手だったんです。彼の指導を任されたのが僕で、ふたりのやり取りなんかを見ていた湯浅が興味を持ったというか、自分のなかで何かが見えたんでしょうね」 エグイ――初めて湯浅のボールを目の当たりにした岩永は、心のなかで叫んだ。 戦慄が走ったのは、プレーヤーとしての湯浅を初めて見る監督の斎藤智也も同じだった。 「こんなことを言うと監督として恥ずかしいんだけど、それまでは『三重県から来た』と『腰痛でマネージャーになった』くらいしかわかんなかったから。初めてキャッチボールを見て驚愕したね。『なんだこりゃ! 』って」
驚異的な成長速度…夏の県大会もメンバー入り
未完の大器を思わせるボールを持ちながら、ピッチングフォームは不安定。湯浅の指導を託された岩永は、「エグイ」ボールの長所を打ち消さないために、右ひざの使い方や左肩の開き具合など、「怪我をしない」ことを最優先としたフォーム作りに専念したという。 湯浅の成長速度は、誰もが目を見張った。 スタート時点で135キロだったストレートは春になると140キロを超え、公式戦で選手としてベンチ入りを果たした。そして、夏の県大会でもメンバーとなった湯浅は、高校時点で自己最速となる145キロを叩き出す。 誰よりも走り、巨大タイヤを押し、実戦練習で腕を振った。それどころか「球拾いさせてよ」と、野手である仁平の早朝練習に付き合うなど、それこそ24時間を野球に捧げていたことが物語るように、湯浅の急成長の根幹は「喜び」にあるのだと、岩永は見ている。 「今までできなかった分、野球ができる喜びが爆発したんです。だから、ボールを“投げる”だけじゃなくて“拾う”ことにも真剣だったんでしょうね」 2017年夏。聖光学院で最もブレークした選手はしかし、岐路に立たされていた。 福島大会を制し甲子園出場を決めていたチームは、県大会の20人から18人に減る甲子園のメンバー選出に苦悩していた。はっきり表現するなら、「湯浅を残すか、外すか」が最大の懸案事項となっていた。 実は斎藤のなかでは「外す」と決めていた。 理由は県大会でベンチ入りした他の4投手は、湯浅が投げられない間もマウンドを守ってくれていたこと。そして、投手陣で最もコントロールが不安定だったからである。 それでも斎藤は、自己完結せずにキャプテンの仁平に意見を求めた。裏方としてチームを支えてきてくれた湯浅への貢献を無下にしたくない心情も介在していたのである。 「甲子園ではピッチャーを5人は入れられねぇんだ。誰かを外さなきゃなんねぇ」 仁平が当時の懊悩を掘り起こす。 「あれだけ成長したんだから、甲子園でもワンチャンって思うわけですよ。でも、そんなことより、自分にとって湯浅は本当に友達だから、絶対にベンチに入ってほしくて」 逡巡の末、仁平が出した答えは「僕には選べません。監督さんにお任せします」だった。 そして、湯浅はメンバーから漏れた。
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