「勝手に作り始めた」…80年代の「傑作映画」がじつは「内田裕也」の大暴走で出来上がった衝撃秘話
いま、1980年代が注目を集めている。TBS金曜ドラマ『不適切にもほどがある! 』は、1986年と2024年の時代差を描くことで80年代カルチャーの郷愁をくすぐり、令和の激しいコンプライアンスの息苦しさに対し疑問を呈して共感性を高め、SNSで話題沸騰となった。じつはその1980年代の10年間のみ、日本映画が配給収入で外国映画を大きく超えたことをご存じだろうか。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 日本映画界に狂乱と退廃、新進気鋭の才気があふれ出した1980年代。そして『復活の日』『ヨコハマBJブルース』『ダブルベッド』『お葬式』『家族ゲーム』『コミック雑誌なんかいらない』など、80年代の話題作を手掛け邦画全盛期を築いた怪物プロデューサーが、岡田裕だ。『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』(伊藤彰彦著)より抜粋して、80年代を象徴する映画『コミック雑誌なんかいらない』(プロデューサー:岡田裕 監督:滝田洋二郎)の裏側と当時の「時代感」をお届けする。 『なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか』連載第1回
滝田洋二郎監督でレポーターの映画を
84年秋、ピンク映画「痴漢電車」シリーズで映画ファンに知られていた映画監督の滝田洋二郎は突然、内田裕也から電話をもらう。 滝田 僕がアパートで脚本を書いていたら、いきなり電話がかかってきて、「内田裕也です。あなたと映画をやりたいんだ」と。 裕也さんとは面識はあったけれど、仕事をしたことはなかったんですが、僕のピンク映画、『連続暴姦』(83年)や『真昼の切り裂き魔』(84年)を観て気に入ったと。そのとき裕也さんが言ったのは、「『十階のモスキート』がフジテレビにすごくいい値段、8000万円で売れた。NCPがもう一本、俺とやることになったから、ヨロシク!!」と。 岡田 もう一本やるなんて、誰も言っていない。 滝田 裕也さんはそう思いこんだんです(笑)。「自分の映画が売れたんなら、すぐに俺に寄こせ。もう一本撮らせろ」と。「ついては一度会いたい。厚生年金会館で郷ひろみさんのショーのプロデュースをやっているので、その楽屋へ来てくれ」と。