個人資産5000億円と言われたCSK創業者・大川功はいかにして財を築いたのか?孫正義も師と仰いだビジネスモデル
■ 安売り厳禁、「企業は利益を上げてなんぼ」の考え方 1962年、会計事務所に日本IBMのセールスマンが訪れ、コンピューターを導入しないかと持ち掛け、大川氏は講習会に参加した。当時の会計・経理作業はソロバン頼み。電卓さえ登場していなかった。そんな時代にコンピューターを導入しろというのだ。講習会には多くの参加者があったというが、ほとんどの人は時期尚早と考えた。ところが大川氏は、これからの情報化時代の「予兆」を感じたという。 その後、兄の友人と計算代行会社を立ち上げ、コンピューターと関わるようになり、その経験から「ハードウエアで儲けるのは難しい。これからはソフトウエアの時代になる」と確信を持った大川氏は、1968年に大阪でコンピュータサービスを立ち上げた。その背景には、若い時代の闘病生活で人よりも出遅れたことがあり、それを挽回するには「未成熟の分野に進出するしかない」と、1996年に出版された自伝『予兆』の中で打ち明けている。 最初は10名でスタート。しかも仕事は全くと言っていいほどなかった。当時すでにソフトウエア会社は存在した。しかしその多くはIBMや日立など大手コンピューターメーカーの系列で、黙っていても仕事が舞い込んだが、独立系のCSKに仕事を発注するところはほとんどなかった。 神風となったのは1970年の大阪万博だった。ここでCSKは給与計算システムとパーキングシステムを受注する。続いて松下電器産業(現パナソニックホールディングス)から仕事の依頼が入る。当時の関西で松下電器の信用力は絶大で、これ以降CSKの経営は軌道に乗り、1972年には初めて黒字を計上する。 経営が厳しい時代でも、大川氏は仕事を取るための安売りはしなかった。CSK創業時の日本は、サービスにお金を払うという発想がなかった。それは今日でも「おもてなしはタダ」といった具合に、一種の日本の文化とさえなっている。 しかしCSKは、年々、仕事の単価を引き上げた。一部のクライアントからは反発されたが、大川氏は一歩も引かなかった。それは会計事務所時代に身に染みた「企業は利益を上げてなんぼ」という考え方だ。安値で仕事を引き受けても長続きしない。永続的に成長するには、適正な利益が不可欠だと大川氏は考えた。 そして情報化の進展が、CSKを後押しする。1970年代に入りCSKは成長を加速、1980年には店頭市場で株式公開、さらに2年後には東証に上場する。ソフトウエア業界では初の快挙だった。そして上場が、次の成長のステップとなる。 いまやトヨタ自動車、ソニーグループと共に日本企業として世界にその名を轟かすSBG。孫正義氏がパソコンソフトの卸売業として起業した同社の飛躍のきっかけは、1994年の店頭公開だった。これにより調達した200億円を原資に米国企業を買収・出資、さらにはM&A先の含み益を担保にさらなるM&Aを続けていく。当時は「孫流の錬金術」と言われていた。 しかしこれは孫氏オリジナルの投資手法ではなく教科書があった。それが大川氏の投資術だった。 1984年、CSKは上場益を原資にセガを買収する。そしてセガは1988年に上場。CSKグループはさらに膨らむ。その後もベルシステム24、亜土電子工業(現MAGねっとホールディングス)などを傘下に収め、株式公開で利益を上げて再投資するというビジネスモデルをつくり上げた。孫氏は大川氏の「弟子」の一人であり、その手法をまねたのは間違いない。