「お父さまの死亡記録を持ち帰っています」満州での別離から79年…突然の連絡
うちにも戦争があった モンゴル抑留編㊤
「父の遺体はモンゴルの大地に捨てられ、その肉はオオカミに食われてしまったのだろう」-。鹿児島県遺族連合会前副会長の山元正光さん(88)=鹿児島市=は11歳の頃から、そう思い込んで生きてきた。 【写真】満州国警察官だった父と、赤ん坊の正光さんを抱く母の静子さん 山元さんの父、正まさ昂たかさんは同県加世田町(現南さつま市)出身。旧制中学を出ると満州国(現在の中国東北部)に渡り警察官になった。満州で正光さんと妹3人が生まれ、一家は平へい泉せん(現在の中国河北省)という街で暮らしていた。 「父は一人息子の私をかわいがってくれた。キャッチボールの相手をし、はやっていた『のらくろ』の漫画も買ってくれた」 生活が一変したのは1945年8月12日。召集令状を受けた39歳の父が歩兵第240連隊へ応召。慌ただしく出て行く父を母と玄関で見送った。父は一言だけ「母に尽くせよ」と告げ、振り向きもせず真っすぐ道を歩いて行った。母静子さん(2005年に92歳で死去)は後にこの時の記憶を短歌に詠んでいる。 振りむかず召されてゆきし夫つまの背よ平泉街の長き裏道 その2日後の14日、平泉に住む日本人に「急いで駅に集まれ」との通達が。「ソ連兵が侵攻してくる」と聞かされ、9歳の山元さんが2歳の妹を背負い、母は7歳と5歳の妹の手を引き、奉天(現瀋陽)への移送列車に乗った。途中で雨ざらしの無む蓋がい列車に移され、「この時初めて、日本は戦争に負けたんだと幼心に分かった」(山元さん)。 奉天までは3日ほどかかった。なぜかトンネルに入るたび機関車が止まり、石炭の煙にむせた。腕時計や貴金属類は全て中国兵に取り上げられた。子連れでの逃避行を悲観してか、衰弱した赤ん坊を橋から川へ投げ落とす女性もいた。 奉天に着くと、日本人たちは映画館の中に押し込められた。いきなり銃を持ったソ連兵が現れ「女を出せ」と脅迫。「何十人かの若い娘さんが泣き叫びながら連れていかれ、館内はパニックになった」。身を案じた母は丸刈りにすることにし、山元さんは母に命じられ、生まれて初めてその黒髪にはさみを入れた。 奉天に集められた日本人は粗末な家屋に分散し難民同然の生活に。おかゆかコウリャン汁だけの日々。餓死者も多く公園には日本人の死体が山積みになった。山元さんは駅で母とたばこ売りをし糊こ口こうをしのいだ。 ようやく10カ月後、満州残留日本人の引き揚げ基地となった葫こ蘆ろ島へ。米国の輸送船を待つ収容施設で疲労と空腹で山元さんは意識もうろうとなる。「頑張れ」と母から何度も頰をたたかれ意識が戻ったという。 博多港に引き揚げ、父方の祖母が住む加世田町の家にたどり着いたのが46年6月。1年半後、一日千秋の思いで父の帰還を待ちわびた母に、父の戦友と名乗る男性から手紙が届く。父は抑留され、ソ連国境に近いモンゴル・スフバートルの収容所で46年1月26日に亡くなったと書かれていた。 「まさか私たち家族がまだ満州で飢えに苦しんでいた時、既に亡くなっていたとは…。どんな過酷な労働を強いられたのか。遺体は埋葬もされず野ざらしなのだろう」。一家は悲しみに暮れた。 山元さんは「大好きだった父と同じ警察官になる」と誓う。ただ採用試験を受けるには高卒が条件だ。奨学金を受け普通高に進むと突然、一家への生活保護が打ち切られた。「当時は奨学金と保護の同時受給ができなかったようで、母が役場にかけ合ったが駄目だった」。学業の合間に新聞配達やキャンデー売り、母が勤めるげた工場の手伝いに汗を流し、家計を支えた。 志望通り鹿児島県警に合格。真面目に勤め上げ、高卒組としては異例の鹿児島中央署長となり警察官人生を終えた。鹿児島市遺族会会長に就任し、戦没者慰霊と戦争体験の語り部事業に取り組んでいた今年2月、ある男性から連絡が届く。 「お父さまが亡くなったモンゴルから、日本政府が入手していなかった死亡記録を持ち帰っています。受け取っていただけますか」
1945年8月の旧ソ連の対日参戦後、旧満州などで捕虜となった日本人のうち、日本政府の推計では約1万4千人がモンゴルに連行され、抑留中に1700人以上が死亡した。「モンゴル抑留」の犠牲者と家族、記録を残そうとするジャーナリストの軌跡をつづる。(特別編集委員・鶴丸哲雄)