美輪明宏がもう一度会いたい人は「やっぱり三島由紀夫さん」かける言葉は「しばらく」そして「ごきげんよう」
1935年、まだ大正ロマンの残り香が漂う長崎県長崎市、カフェや料亭を営む家庭でこの世に生を受けた美輪明宏。たぐいまれなる美貌と表現力で、歌手、俳優として活躍するとともに、人生相談の回答者としても人々の心の支えとなってきた。’24年6月に出版された著書『私の人生論 目に見えるものは見なさんな』(毎日新聞出版)と、THECHANGEの電話インタビューで、美輪明宏の“いま”に迫る──。【第3回/全3回】 ■【画像】まさにはかない美少年……! 若かりし頃の美輪明宏さん『ヨイトマケの唄』のジャケット写真
旧知の仲、江原啓之さんとは今も交流がある
歌手・俳優・演出家として長きにわたって日本の芸能界のトップを走ってきた美輪明宏のもうひとつの顔が、愛の伝道師。 ’05年から放送されたテレビ番組『国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉』(テレビ朝日系)では、数多くの著名人をゲストに迎え、江原がオーラや前世を見て、美輪とともにアドバイス。深夜枠からスタートしたこの番組は話題となり、ゴールデンタイムのレギュラーと、レギュラー終了後の特番を含め5年間に渡って放送された。 「江原さんとは、彼がお引っ越しされたこともあってしばらくお目にかかっていないのですが、私のお誕生日にお花を届けてくださいました。とても嬉しかったですね」
もう一度会えるとしたら? それはやはり「三島由紀夫さん」
年齢を重ねると、また会える人もいれば、もう二度と会えない人も増えてゆく。 美輪明宏が、できることならもう一度会いたい人とは? 「それはやっぱり、三島(由紀夫)さんですね」 2人が出会ったのは、美輪が16歳のとき。 故郷・長崎の中学を卒業して上京し、シャンソン歌手を目指して国立音楽大学付属高校に入り、銀座の喫茶店でアルバイトをしていたときのことだった。すでに有名な作家になっていた26歳の三島由紀夫は、美輪の才能にほれ込み、自身の作品の舞台に起用した。 公私ともに信頼し合っていたという彼らの永久の別れとなったのは、三島が45歳だった’70年のことだった。 「もし、もう一度三島さんに会えたら、何と言うかですって? そうですね『しばらく』そして『ごきげんよう』かな。そうしたら三島さんはいつものように『おぅ』って答えますね、きっと」 美輪さんの「ごきげんよう」をじかに聞けるなんて! と、取材チームは歓喜。 「私は、この『ごきげんよう』で賞をいただいたんですよ」 美輪は’14年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』でナレーションを務め、毎回最後に口にする「ごきげんよう」という上品なあいさつが話題となり、「2014ユーキャン新語・流行語大賞」にランクインした。 著書の中で美輪は「少しでも世間を明るくする方法」として、「ルンルン」という言葉を挙げている。 ――せめて普段の会話の中だけでも気持ちが前向きになったり、ほっと救われたりする言葉はないものか、いろいろと探してみました。そして、見つけたのが「ルンルン」です。(『私の人生論 目に見えるものは見なさんな』より) 感情的に怒鳴ってしまったとき、怒りや悲しみなどマイナスの感情に支配されそうになったとき、「ルンルン」は理性を取り戻すのを手助けしてくれる魔法の言葉だと、美輪は言う。 美輪から受け取った「ごきげんよう」と「ルンルン」を携え、目に見えないものを見て、私たちも明日からの日々を上品に生きていきたい。 美輪明宏(みわ・あきひろ) 1935年生まれ、長崎県出身。16歳でプロ歌手としてデビューし、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で注目を集める。1957年に「メケ・メケ」、1966年に「ヨイトマケの唄」が大ヒット。俳優としては、1967年に寺山修司の「演劇実験室◎天井桟敷」の旗揚げ公演「毛皮のマリー」ほかに、三島由紀夫と組んだ「黒蜥蜴」ほか、数多くの作品に出演。以降、演劇・リサイタル・テレビ・ラジオ・講演活動など、幅広く活動。また、さまざまなメディアで人生相談の回答者をつとめ、絶大な支持を得ている。 工藤菊香
工藤菊香