バブルに消えた日産レパードJ.フェリー、まさか30年後も語られ続けるとは!【迷車のツボ】
連載【迷車のツボ】第8回 日産レパードJ.フェリー 世界で初めてのガソリン自動車が生まれてすでに140年以上。その長い自動車史のなかには、ほんの一瞬だけ現れては、短い間で消えていった悲運のクルマたちも多い。 【写真】フロント&サイドも曲面だらけ。どこにも「カド」がない 自動車ジャーナリスト・佐野弘宗氏の連載「迷車のツボ」では、そんな一部のモノ好き(?)だけが知る愛すべき"迷車"たちをご紹介したい。 * * * というわけで、今回取り上げるのは、1992年6月に発売された「日産レパードJ.フェリー」だ。 1992年といえば経済史的には日本のバブル経済はすでに崩壊して、景気は後退局面に入っていたとされる。しかし、クルマ業界はまだまだイケイケドンドン。バブル特有の「世界でいちばん幸せな国はニッポン! 未来はメチャ明るい!!」という能天気な空気感のなかで開発された新型車が、どんどんカタチになって、次から次へと発売されていた時代である。今回のレパードJ.フェリーも、そんなバブル真っただ中に産み落とされた1台だ。 ただ、当時のクルマ専門誌を振り返ると、このクルマは3代目レパードというより、まずは日産が北米で展開していた高級車専門ブランド「インフィニティ」のミドルクラス「J30」として企画されたようだ。日本にはインフィニティ販売網はないので、車格的に近いレパードの名が与えられたらしい。 そもそも、バブル時代にはとにかく新しいものが持てはやされて、老舗的なブランド名はことごとく"オジンくさい"などと敬遠されていた。このクルマがレパードとJ.フェリーのダブルネームだったのも、市場の反応を見ながらレパードの冠を外して、J.フェリーという"ナウい"車名に自然移行させようしたフシがうかがえる。実際、広告などでの表記も、レパードのフォントは小さく、J.フェリーのそれを大きくするのがお約束だった。 当時の公式プレスリリースには、J.フェリー(J.FERIE)は「フランス語で祝日を意味する"jour ferie"という言葉を、人の名前を思わせるようなサイン感覚で英語的に表現した造語」と、非常にややこしい説明がなされている。そして、本カタログの表紙をめくると、そこにはスーツ姿のイケメン西洋人と、その配偶者と思しき美しい西洋女性が、マントルピースの前でならぶ肖像写真が目に飛び込んでくる。その横にデカデカと掲げられているJ.フェリーのキャッチコピーは『美しい妻と一緒です。』である。 欧米崇拝、性差別、外見至上主義......と、今だと炎上しそうな気配ぷんぷんだが、当時はこれが最先端のマーケティングだったのだ。 こうしたマーケティングからも、J.フェリーが"DINKs"をメインターゲットとしていたことは明らか。DINKs(ディンクス)とは英語の"Double Income No Kids(ダブルインカム・ノーキッズ)"の略で、あえて子供をつくらず、共働きによる高世帯収入で裕福な生活を楽しむ夫婦を指す。今風にいえば"パワーカップル"といったところか。 そんなJ.フェリー最大のツボは、豊かな曲線による流麗なスタイリングだろう。当時の高級サルーンは水平基調が主流で、ちょっとスポーティな雰囲気を醸し出すときには、前のめりのウェッジシェイプとするのが定石だった。しかし、J.フェリーはあえてその逆を張って、往年のロールスロイスやベントレー、ジャガーなどを思わせるやクラシカルな"垂れ尻"プロポーションを、全身とろけるような曲面で包んで見せたのだ。 前記のように、このクルマはもともとインフィニティ版のJ30だったから、そのデザインも米カリフォルニア州にある「日産デザインインターナショナル(NDI)」が担当した。同時代にNDI(現在はNDA)が手がけて日本でも販売された日産車には、ほかに9代目ブルーバードSSSセダンやNXクーペなどがあるが、失礼ながら、どれも日本でヒットしたとはいいがたい。はっきりいって、当時のNDI作品は日本での一般ウケはよくなかった。