小林麻美が語る、東京の記憶とは? “伝説のミューズ”が思い出の街を振り返る
かつての六本木にあった“ジェントルな怪しさ”
「中学生は銀座や本牧のベースキャンプ、文化学院に通うあたりから青山、原宿、そして20代はもっぱら六本木でした。〈キャンティ〉とか〈パブカーディナル〉とか、そしてディスコ。そもそも私はグループサウンズのおっかけからはじまって、ロック少女なわけで、とにかく踊りまくっていました。しかも昔のディスコは女の子からお金をとらなかったし、常連にはとてもやさしいし、キャステールとか、よく行きました。 ちょっと背伸びしたというと飯倉の〈キャンティ〉ですかね。お店を知ったのは中学2年の時、友達が近くに住んでいて、遊びに行く時、キャンティの横を通るわけですよ。『ジュリー、いるかな?』って、キャンティの前を通るたびにベビードールの店内を覗いていました(笑)。お店に入ったのは20歳になってからです。当時所属していた事務所が隣にあって、みんなが集っていて、まるで社員食堂みたいな存在でした。それでもユーミンみたいに入り浸っていたというわけではなかったです。なので、私は〈キャンティ〉より〈ニコラス〉の方が印象的です。中学1年生の時にピザを初めて食べたのがここで、忘れもしません。今回のロケで六本木の〈シシリア〉に行きましたけど、四角いピザは懐かしかったし、キュウリのサラダも昔のままでおいしかった。夜も遅くまでやっていましたから、仕事を始めた頃はよく行きました。 六本木は変わりすぎちゃったから寂しいです。昔は艶っぽくて、ジェントルな怪しさがありました。交差点あたりは華やかで、角にある誠志堂という本屋でよく待ち合わせをしていました。ゴトウの花屋に〈西の木〉、〈ハンバーガーイン〉を越えて、飯倉片町の方に行くと静かで、暗くてなにもなくて、そこが大人のアジトって感じでね。ユーミンやスタイリストの宋明美さんとまあ、遊んでいたし、飲み歩いていました。そうは言っても私はアンダーグランドにもぐったりはしなくて、メジャーどころが夜遊びのテリトリーでした。30代はこれまたひたすら西麻布で、夜遊びの最後は芝浦の〈ゴールド〉。〈ゴールド〉で遊び切って子供を産んだって感じです(笑)」
【プロフィール】小林麻美(こばやしあさみ)
1953年生まれ、東京都出身。1972年『初恋のメロディー』で歌手デビュー後、資生堂、パルコなどのCMが話題に。1984年には松任谷由実がプロデュースした『雨音はショパンの調べ』が大ヒット。1991年、妊娠、結婚を機に引退。25年の時を経て、2016年ファッション誌『クウネル』(マガジンハウス)の表紙で復帰。 文・古谷昭弘 写真・藤田一浩 ヘア・松浦美穂(TWIGGY.) メイク・COCO 編集・稲垣邦康(GQ) 撮影協力・日本BS放送(BS11)