中学は公式戦0勝、高校の同級生は2人…元楽天・聖澤諒氏が「激レア環境育ち」でも活躍できた理由
野球の強豪校でもなく、指導者もいなかった
「プロ野球に進むのは、野球の強豪校の選手がほとんどです。『強豪校に行けなかったからもう無理』とか『指導者がいないから夢を諦めよう』という人は多い。そのように環境を理由に諦めてしまう人を減らしていきたいと思ったんです」 【ファンに囲まれて…】すごい…現役時代の応援歌で迎ええられて照れる聖澤 東北楽天ゴールデンイーグルスで’18年までの11年間、“足のスペシャリスト”としてプレーした元プロ野球選手の聖澤諒氏(38)。現役引退後の現在、楽天イーグルスアカデミーのベースボールスクールで小中学生の指導にあたっている。そんな聖澤氏は9月に『弱小チーム出身の僕がプロ野球で活躍できた理由』(辰巳出版)を上梓した。その動機について、彼がこう語るのは本のタイトルにもなっている通り、自身も環境には恵まれていなかったからだ。 「小学生の時に親に頼み込んで入った地元のチームは、週に1度日曜の2時間しか練習がなくて、監督やコーチも近所のお父さんたち。とくに指導はなく、ノックをしてくれるぐらい。中学校に進み、軟式野球部に入りましたが、顧問の先生に野球経験はなく、そこでも指導はありませんでした。野球が好きで『上手くなりたい! 野球選手になりたい!』と思っていた僕は、ずっと自分で考えて練習するしかなかったんです」(以下、「」内のコメントはすべて聖澤氏) 現在ならそのような場合にはYouTubeを見れば、容易にヒントや答えが見つかるかもしれない。だが、当然ながら当時はそんなものはなかった。では聖澤氏はどうしていたのか。 ◆中学時代は公式戦0勝、高校最後の夏は県予選1回戦で敗退 「本や、当時は中継があった巨人戦での選手の動きをお手本にして試行錯誤してみたりしていました。そこで大切にしていたのは、相手や状況をイメージすること。例えば素振りをするにしても、相手がどんなピッチャーで、カウントや走者の状況がどうで……と考えながらバットを振っていました。 今、小中学生を教えていても、状況をイメージして素振りをしたり、自分で考えて練習をする子はあまりいません。自分では当たり前だと思っていましたが、実は珍しいタイプだったことを、最近知りました(笑)」 中学生時代には公式戦0勝。チームの中では上手くても、野球の強豪校に進むことができるはずもなく、聖澤氏は地元の公立校・松代高校に進んだ。野球部は同級生が2人だけしかいなかった。 「松代高校の顧問は柳沢博美先生。甲子園経験者で、明治大学でも野球をなさった方でした。とくに指導はありませんでしたが『聖澤は自分で考えて練習できるから』と、僕の“自分で考える”ということの芽を摘まない人でした。ただ、高校に入った時点で、夢だったプロ野球選手になることは諦めていました。松代高校からプロに進んだという話は聞いたことがなかったし、もう現実も見えていますから」 高校3年の春にはホームランを打ったこともあったが、その夏の県予選は1回戦敗退。聖澤氏の高校野球は終わった。ただ、そのホームランが『野球小僧(現・野球太郎)』という雑誌で小さく取り上げられたことで、國學院大學からセレクションのテストの案内が学校に送られてきた。野球は高校までと思っていた聖澤氏だったが、監督は大学に行くべきだと考えていた。 ◆強豪大学でキャプテン、そしてプロ選手になれたワケ 「『せっかく案内を送ってくれたのだから、大学の野球を見てこい』って言われて、テストに参加することにしたんです。東都の名門・國學院大學だけあってセレクションに集まっているのは、甲子園経験者や強豪校の選手たちばかり150人。 僕はそれまでチームでは一番上手かったけど、ここでは一番下手でした。自分よりも上手い人間ばかりいるその雰囲気が良くてワクワクしました。『敵わないから、やっぱりやめよう』とはならなかった。竹田利秋監督に、それまで自分で考えて練習をしてきたことを伝えると、そこを見込まれて、入ることができました」 聖澤さんは、そこで「一番下手な自分がどうやってレギュラーを掴むか」を考える。 「一番下手なままじゃ面白くないですからね。『4年かけて、甲子園経験者や強豪校出身の人間よりも上手くなってやる!』と思いました。最初はバットも振らせてもらえませんが、ティー上げをしながら、守備をしながら上手い人の技術を見て、それを自分の練習で試行錯誤して。一番下手なので盗めるものばかりでした。 目標よりも早く、2年生でレギュラーになれて、さらに相手の心理や自分の精神状態などを考えて、バッティングや盗塁の確率を上げていったんです。死ぬほどバットを振ったとか、めちゃくちゃノックを受けたとかではないです」 名門大学で頭角を現していった聖澤氏は4年時にはキャプテンを務めるまでに。東都リーグ1部で首位打者に次ぐ成績を残し、ベストナインにも選ばれた。聖澤氏曰く『ドラフトの妙もあって』、東北楽天ゴールデンイーグルスから大学・社会人ドラフト4巡目で指名された。晴れてプロ野球選手になれた聖澤氏だったが、そこで待ち受けていたのは、ルーキーの誰もが目の当たりにするプロのレベルの高さだった。 ◆ダメなのは「考え方やメンタル」にある 「1月に合同自主トレに参加しました。そこで投げている現役選手のボールを見たらあまりにスゴくて。それが田中将大や岩隈久志さんなら、まだ分かるんです。でも、実績もない20歳そこそこの選手の球です。ショッキングでした。『やっていけるのか?』って不安になりましたね。 でも、敵わないって怖がって終わりではない。どうすれば一軍に残って、レギュラーの座を掴めるのか。当時、楽天には、今の周東(佑京)選手(福岡ソフトバンクホークス)のような足のスペシャリストがいませんでした。守備やバッティングがダメでも、スペシャル代走なら……と、走ることでアピールしました。結果、一軍のキャンプに参加して、1年目から一軍でもプレーできました」 だが、なかなか一軍に定着できずに苦しんだ時期もあった。 「僕もそうでしたが、ニ軍で結果を出して、一軍に呼ばれても、そこで結果を出せない選手ってたくさんいます。ダメなのは考え方やメンタルなんです。いざ一軍に上げてもらっても、緊張してしまって力の半分も出せない。どうすればいいのか考えました。 二軍でのプレーが評価されて一軍に上がっている。そのニ軍でのプレーをすればいい。違うのは環境です。ニ軍では観客が100人でも、一軍では2万人になる。ラッパなんかの鳴り物もある。僕は2万人の観客を、ニ軍の時と同じ100人程度だとイメージして、落ち着いてプレーして、チャンスをものにしました」 当時の楽天の監督は故・野村克也氏。野村監督の掲げるID野球も『考えて野球をしろ!』というものだった。聖澤氏はこれまで自分で考えてきた野球が、ドンドン大きなものになっていったという。 「『考えがあって、技術がある』。このことは國學院の竹田監督も野村監督も大事にしていました。野球って、考えて野球をする選手、考える能力の高い選手こそが活躍できる世界なんだと思います」 ◆大谷翔平は隙がなかった 足を活かして盗塁をするにあたって、コーチからも情報は上げられるが、聖澤さんは投手それぞれの癖を見抜いたりと、自身でも対策は怠らなかった。ユニフォームに入る皺すらも注意していたという。概して身体の大きなピッチャーはクイックも下手で癖も出やすく、走りやすかったそうだ。 「(北海道日本ハムファイターズ時代の)ダルビッシュ(有)なんかはそうでした。本人は、2塁に走っても、打者を抑えるからって、気にしていないんでしょう。 でも、(同じくファイターズ時代の)大谷(翔平)くんは違いました。身体も大きいのにクイックもどちらかというと速い部類でした。点を取られる可能性が高まるので、1つでも塁をあげたくないんでしょうね。完璧なんです。隙がないんです。僕は走ったことがないです。今季は大谷くん自身が走りまくっていますが、僕だったら、あんなに走りませんよ。先発出場を続け、打線の核でやっていて、身体への負担も大きい。故障のリスクも高まりますしね。スゴいとしか言いようがないです」 聖澤氏は’12年には盗塁王、12球団トップの得点圏打率を記録、’13年のリーグ優勝・日本一には中軸として貢献した。外野手としての連続守備機会無失策のNPB記録も持っており、プロ野球選手として華々しい成績を残すことができた。その根本には、小学生の頃からの“自分で考える”という自然に編み出した方法論があった。 「プロに入るのも、社会に出るのも同じ。成功できない人って、指示をもらって、言われたからやる人ではないでしょうか。“自分を持って考えること”こそが必要なのです。アカデミーで教えている小中学生にも、そのことを伝えたいです」 聖澤氏の姿勢は野球選手としてだけの教訓ではなく、生き方全般においても通じるものなのだ。
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