ヤンキー女性の族車ファッション、平成から令和の変化が面白い。“サラシに特攻服”から“ギャル”に
こんにちは。伝説のレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』3代目編集長をやっていた倉科典仁と申します。ティーンズロードは1989年に創刊され、90年代には社会現象に。現在は廃刊となっておりますが、そんな本誌に10年以上携わっていました。 当時まだまだバブルの余韻が残り、毎晩のように夜の街に繰り出す若者も少なくなかったです。都会ではディスコ……今で言うクラブですね。そこにパリピの女性が通い、「お立ち台」(ダンスフロアの踊れるスペース)の上で扇子とお尻をふりまくり、「アッシー」(車の送迎で“足”になってくれる男性)や「メッシー」(ご飯を奢ってくれる男性)をキープする。そんな時代でした。 ⇒【写真】90年代初頭、レディースの私服にはバブルの余韻が
90年代、レディース暴走族“全盛期”に突入
「暴走族なんてまだいるの?」という雰囲気のなかで、世の中と逆行するようにレディース暴走族雑誌『ティーンズロード』はスタートしたわけですが、ヤンキー文化は根強く残っていました。 もちろん、ニッチなジャンルだと思いますが、創刊から1年も経たないうちに全国規模で“レディース”という存在が増加の一途をたどり、各メディアもその状況に注目し、“社会現象”として編集部には取材依頼が殺到していたのを覚えています。 あの頃のレディースたちのファッションと言えば、族車に乗って暴走行為をする時には「サラシに特攻服」が定番です。その出で立ちは「より怖く、より厳つく」。メイクは紫色の口紅など、まるで魔女のような濃いめで、とにかく強烈な印象を相手に与えるものでした。 とはいえ、彼女たちの私服は、肩パットが入ったスーツ系や、派手な模様のブラウスにタイトなスカートを合わせるなど、スナックで働いていそうな「水商売系」ファッションが多かったですね。 地方までレディース取材に足を運ぶと、彼女たちは撮影時には特攻服なのですが、終わってから編集部のスタッフたちとご飯を食べに行くことになると、ほとんどの子が水商売系のバブリーなスタイルに着替えてきました。これは面白いと思い、『ティーンズロード』では私服の特集ページなども組んでたびたび紹介していました。 ヤンキーたちの間では工藤静香さんや中森明菜さんが人気を博していました。また、レディースは引退すると、実際にスナックやパブで働くケースが多かったので、彼女たちは先輩たちに憧れて、ファッションもマネしていたのかもしれません。 当時の私としては、彼女たちといると、飲み屋さんに来ているような錯覚を覚えた記憶があります。まあ、私も若かったので、彼女たちがたくさん集まってくるとドキドキしていたのも事実です(笑)。