人望ない「石田三成」それでも“親友に慕われた”訳 皮膚病を患う盟友の大谷吉継との温かな逸話
ところが、盟友の大谷吉継に、いちはやく思いを打ち明けたところ、思わぬ返事が返ってきた。 「お前は人望がないから、人たらしの家康には勝てるわけがない。やめたほうがいい」 そこまでハッキリ言わなくても……。なんだか三成がかわいそうになってくるが、事実、三成は人の心をつかむことが苦手だった。 ■うまくコミュニケーションがとれなかった 特に三成自身が事務能力に長けた官僚タイプだったため、戦場で力を発揮する加藤清正や福島正則といった猛将タイプとは、相性がよくなかったようだ。
全国統一を果たした秀吉が海の向こうに目を向けて、朝鮮に出兵したときに、その溝はさらに深まった。三成が、戦地に送る物資や兵員を配置する一方で、加藤清正らは戦地へ。 しかし、朝鮮出兵は失敗に終わり、撤退を余儀なくされることになる。難しい撤退の指揮をとって成功させたのは三成だったが、裏方仕事はいつの時代も軽視されるものだ。清正らからすれば「戦地でがんばっているのは自分たちだけじゃないか」という気持ちから、三成への反発心を強めていく。
しかも、間が悪いことに、『清正記』という文献によると、帰国した清正に、三成はこう声をかけたという。 「ご苦労さまでした。苦労をねぎらって今度茶会を催したい」 この言葉に、清正はカチンときた。何が茶会だ。こっちは戦場で食料もなく苦しんできたというのに……。そんな怒りを覚えて、清正はこんな嫌味で返した。 「ぜひ御茶をいただこう。私は7年間、朝鮮で戦い、兵糧一粒もなくて、茶や酒も持っていないので、まずい稗粥でもてなそう!」
三成からすれば、よかれと思ってかけた言葉だろう。だが、それで相手を怒らせてしまうのだから、三成には相手の気持ちがわからないところがあったようだ。親友の吉継が「お前には人望がない」とはっきりと三成に伝えた理由もわかる気がする。 しかし、三成は何も自分の思いを表現すること自体が苦手だったわけではない。鳥の鷹が大好きであり、上杉景勝に自分の鷹を献上したときには、こんな手紙を書いた。 「私の秘蔵のタカでございます。アオサギを捕獲するタカということで他所からいただいたものですが、ガンにばかり興味を持ち、私のもとでアオサギをとることはありませんでした。この春、私のところではガンを20羽ほどとりました……」