【驚愕の江戸改革】米を捨て“絹”で稼ぐ!上杉鷹山が財政危機から藩を救った“大胆すぎる改革”
「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。 ※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。 ● 金・銀・銅からなる 江戸時代のお金の制度 上杉鷹山(1751~1822年)は、江戸時代の大名、米沢藩主。もともとは米沢藩の上杉家ではなく、高鍋藩(宮崎)の秋月家の出身である。上杉家と遠縁であったことと、とても賢い子であったため、上杉家の養子として迎え入れられる。当時の米沢藩は、繰り返された領地削減や浪費などにより、極度の貧困にあえぎ、領民も次々と米沢から逃げ出すほどだった。鷹山は、経費削減や新規事業を起こすことで米沢藩を豊かにし、奇跡的にその財政を立て直す。江戸時代でも屈指の名君と評される鷹山は、海外での評価も高く、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が尊敬していたのは有名な話である。 江戸時代の藩の収入は、年貢米が中心でした。戦国時代から米がすべての価値の中心であり、お金のような役割を果たしてきたからです。 しかし、豊臣秀吉にかわって天下をとった徳川家康は、貨幣制度の全国統一に乗り出して、「大判」「小判」「一分金」などの金貨、「丁銀」「豆板銀」などの銀貨をつくりました。 さらに3代将軍・徳川家光の時代には「一文銭」などの銅貨(銭貨)もつくられるようになりました。こうした金・銀・銅の3種からなる江戸時代のお金の制度を「三貨制度」といいます。 ● 米による収入に頼る限界 さて、年貢米による収入に頼っていると、次第に藩の財政が厳しくなっていきます。 1600年代の新田開発や農業技術の革新により、米が大量生産されるようになると、余るようになったからです。 各藩は大坂などで米を販売してお金を得ようとしますが、米が余ることにより米の値段が下がり、十分な収入が得られないようになっていったのです。 ● 米以外の収入源を立ち上げる 一方、江戸時代になり、世の中が平和になって商工業が発達した結果、生活に必要となる商品が市場で販売され、お金で売買されるようになります。 しかし、米を売っても十分なお金が入らない藩は、必要な商品を買うために借金をするようになり、財政が厳しくなっていたのです。 このような背景があり、各藩は収入を増やすため、米以外にお金を稼げる商品を開発するようになりました。それは、米沢藩も例外ではありませんでした。 そして、上杉鷹山が立ち上げたのは、「絹織物業」でした。 ● より高く売れる商品をつくる もともと、米沢藩では染料となる紅花の栽培が盛んで生糸をつくる養蚕業も育っていました。 しかし、そのような原材料はあっても、絹織物そのものをつくる産業は育っていなかったのです。 原材料そのままより、原材料を加工した商品のほうが高値で売れます。 ● 原材料の産地から 完成品メーカーに進化させる そこで鷹山は、米沢藩を原材料となる生糸や染料をつくる生産地から、絹織物をつくる完成品メーカーへと変貌させて、より大きな収益をあげることを目指したのです。 しかし、絹織物をつくる技術がないと、完成品メーカーにはなり得ません。そこで、絹織物の先進地であった新潟の小千谷やから技術者を招き入れ、加工技術を教えてもらうことにしました。 その技術を学んだ武士の妻や子が、内職で絹織物をつくるようになったのです。これが米沢の絹織物業の始まりでした。 ● 高値で売れるようになった業務改革 そうして生産された絹織物は、紅花などの植物染料を使った風合い豊かな先染め織物「米沢織」として全国的に評価を得るようになり、高値で売れるようになったのです。 米沢織の販売が藩の収入を増やし、財政の改善につながっていきました。そして、鷹山が立ち上げた米沢織は現在、海外でも高い評価を得ています。 上杉鷹山の教え 「どのようにしたら高く買ってもらえるのかを考えてみよ」 ※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
増田賢作