週刊・新聞レビュー(1・13)「イスラムを侮蔑する風刺画、どこまで許される?」徳山喜雄(新聞記者)
風刺新聞編集部への銃撃テロ
風刺画が売り物のフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリにある編集部が、自動小銃をもったアルジェリア系フランス人の兄弟に襲われ、編集長や風刺漫画家ら12人が死亡した。絶句するような驚愕の事件だ。 シェルリーはどぎつい風刺画で知られ、イスラム教の予言者ムハンマドやイスラム教徒を繰り返し侮蔑してきた。風刺というよりも侮蔑といっても差し支えないほど酷な内容で、イスラム世界の反感が強かった。 しかしながら、どのような事情があろうともテロが許されるわけではない。1月11日には反テロのパリ大行進に120万人、フランス全土では370万人が参加した。市民社会が分厚く根づいていることがよくわかった。 1789年のフランス革命で多くの血を流して獲得した民主主義の土台ともいえる自由や平等への挑戦には、断固として戦うという姿勢を示した。「表現の自由」を守り抜くという決意も伝わってきた。 ただ、違和感があったのは、下劣ともいえる絵を描き、イスラム教徒を傷つけることが「表現の自由」によって守られるのか、という点だ。違法でなければ何をしてもいいとは言えず、「妥当な表現」なのかどうかを、この機会に立ち止まって考えてみる必要があるのではないか。 フランスの風刺(カリカチュール)は17世紀の喜劇作家モリエール以来の伝統で、19世紀に画家でジャーナリストのシャルル・フィリポンが創刊した週刊新聞「カリカチュール」が風刺新聞のはじまりとされる。風刺とは庶民が権力者を、持たざる者が持てる者を批判し、陽気に笑い飛ばすというイメージがある。シャルリーが描いたムハンマドの風刺画は、そのようなイメージとはほど遠い。 この事件を新聞が連日、大きく取り上げたのは当然であろう。しかし、「表現の自由」と「過激派によるテロ」を二項対立化して論じる記事が多くみられ、物足りなさが残った。これまでの記事を読む限り、「表現の自由」のあり方を考える視点が、多くの新聞で欠けていたのではないか。