「日本の残虐行為を許しても忘れない」…日本軍による「虐殺」に対する「フィリピン人の苦悩」
東アジアの歴史問題にたいする「ひとつの回答」
第2次大戦はフィリピン、日本、米国などさまざまな視点で語られるべきだ。それがデラクルス氏の信念だった。だからその説明も日本の立場に理解があった。「カイグン」「リクグン」「シンブ・シュウダン」「オーニシ・チュージョー」など、ところどころに日本語も交えてくる。日本軍への敵意どころか、ときに敬意すら強く感じた。 このような展示が功を奏してか、年間約5000人(コロナ禍前は約7500人)の来訪者のうち、日本人が約3割を占めるという。神風と赤字で書かれた平和記念碑が中庭にあり、そのまえで線香が立てられるようにもなっていた。最近でも日本兵の遺族がきて、遺影を供えていったそうだ。 せっかくなので、近くにある海軍壕もみせてもらった。民家の近くに入口があり、懐中電灯で照らしてもらいながら内部に入った。岩肌がゴツゴツとむき出しで、突貫工事でつくられたことを感じさせる。 この壕は海軍航空部隊の司令部として整備され、第1航空艦隊司令長官の大西瀧治郎や、第2航空艦隊司令長官の福留繁が出入りしていた場所だった。 特攻作戦を採用し、「特攻の父」と呼ばれるのが、前者の大西である。壕の入口近くには、かれの慰霊碑も建てられていた。最近塗り直されたのか、真っ赤な鳥居があり、そのさきには「大西瀧治郎 平和記念碑」と書かれた墓石のような碑が立っていた。 碑に描かれた日の丸や旭日旗などは色褪せていたが、なぜか盆栽がいくつも並べられ、周囲の草もきれいに刈られていた。これも地元のひとびとの手によるものなのだろう。 もちろん、フィリピン人は日本軍を肯定しているわけではない。デラクルス氏も「日本軍は強い決意と規律をみせた」と持ち上げながらも、こう付け加えることを忘れなかった。 「日本の残虐行為で多くのフィリピン人が苦しみ、死にいたりました。そのことをフィリピン人は許したかもしれませんが、しかし、忘れることはありません」。 われわれ日本人が、まさに心に銘記すべきことだろう。戦争の悲劇を記憶したうえで和解する。歴史の遺産はできるだけ保存する。少なくともフィリピン人はそうしている。とかく燃え上がりがちな東アジアの歴史問題にたいするひとつの回答が、ここにあるように思われた。 さらに、こちらの記事<「日本の初代天皇」とされる「神武天皇」のお墓がどこにあるか知っていますか>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)