なぜ、ヨーロッパで最も有名な戦国大名は、信長でも秀吉でもなく、「BVNGO」の「大友宗麟」だったのか?
大友宗麟に面会するザビエルと、棒で牽制する僧侶
一方、ポルトガルにも大友義鎮(宗麟)に関する複数の記録がある。 ポルトガル中部の都市コインブラは、丘の上に位置する大学を中心に発展した文化都市である。この町のコインブラ大学は、1290年に創設の、ヨーロッパでも屈指の歴史を誇る大学である。 この町の新カテドラルには、フランシスコ・ザビエルが玉座に座った王に面会する場面を描いた画像がある。 玉座に歩み寄ってくるザビエルを迎える大友義鎮(宗麟)は、その衣裳や靴こそ当該16世紀日本の戦国武将の姿にそぐわないものの、絨毯を敷いた玉座から右手をあげてザビエルを迎え入れようとする顔の表情など、きわめて写実的な日本人として描かれている。 また、大友義鎮(宗麟)の右後に立つ袈裟姿の老僧侶は、両手を合わせてザビエルへの敬意を示そうとしているのに対して、ザビエルの後方に描かれた6~7人の僧侶たちが右手で棒を誇示してザビエルを牽制しているのは、キリスト教の受容をめぐる豊後府内の仏教界の対応を如実に示していて興味深い。 このように、ヨーロッパのキリスト教界においては、日本史におけるいわゆる「天下統一」に貢献したわけでもなく、また、日本の複数の戦国大名のなかで必ずしも人気が高いわけでもない大友義鎮(宗麟)が、「豊後王」等の名称で最も多くの絵画、挿絵、版画等に描かれているのである。 では、なぜこのような日本史と西欧史の認識的相異が生じたのだろうか。 * 海に出たらやり放題!? 「王」を名乗って勝手に外交? 鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』では、日本史だけじゃわからない戦国大名たちの野心あふれる海外進出が明らかにされま!
鹿毛 敏夫(名古屋学院大学国際文化学部教授)