「土ぼこりの色」のパンツが世界に広まるまで、驚きの歴史と人気に潜む後ろめたい陰
植民地時代の軍服のカーキ色はなぜファッションの主流になったのか
19世紀初頭のインド、岩だらけの丘に草木がまばらに生えている乾燥地帯では、英国軍の象徴である赤いコートが軍人たちを無防備にしていた。英国軍は初めて、あまり目立たず、華やかに見せないことを考えなければならなくなった。 ギャラリー:1915年のフランス兵のカラー写真など、カーキ色の歴史 写真7点 「19世紀は小さな植民地戦争が続いた時代で、英国軍は帝国の外れで多くのことを学びました。彼らは制服について多くを、そして制服を戦略的に使う方法を、つまり、制服を戦場に不可欠なものとして使うにはどうすればいいかを学んだのです」と文化史学者のジェーン・タイナン氏は話す。氏は『British Army Uniform and the First World War: Men in Khaki(英国軍の制服と第1次世界大戦:カーキ色の男たち)』の著者でもある。 その解決策がカーキ色だった。カーキ色は、植民地時代のインドで英国兵が暮らしていた環境を思い起こさせるくすんだ茶色だ。実際、「カーキ」はウルドゥー語で「土ぼこりの色」を意味する。 カーキ色は、軍服に初めて広く採用されたカムフラージュ技術だ。『Brassey’s Book of Uniforms(ブラッシーズ制服の本)』の著者ティム・ニューアーク氏はカーキについて、「ユニフォームの未来にとって最も大きな変化」と表現している。 その176年の歴史において、カーキは一般的な軍服の色であり続けただけでなく、植民地時代の意味合いを暗に受け継ぎながら、若者、ビジネス、冒険のユニフォームにもなった。
兵士から大学生まで
軍服にカーキ色の生地を初めて使用したのは、ガイド隊の創設者ハリー・ラムズデン卿(きょう)と副官ウィリアム・ホドソンだったとされている。 インドが英国東インド会社の占領下にあった1846年に創設されたガイド隊は、英国領インド軍の斥候兵として活動し、戦闘に参加したインド兵で構成されていた。ホドソンは1848年、「土ぼこりだらけの地で(ガイド隊を)見えなくする」つもりだと言った。 初期のカーキ色の軍服は、現地の泥で白い綿布を染めてつくられていた。20世紀に入るころ、ガイド隊は英国から染色済みの生地を調達するようになった。当時、英国は主に米国とインド、エジプトの植民地から綿花を輸入していた。 カーキ色の軍服は初めて広く採用された迷彩服で、軽い生地は温暖な地域での戦闘に適していた。1897年、カーキ色は海外に駐留する英国軍の公式な制服となった。ほどなく、米西戦争で活躍した米国のラフ・ライダーズ(第1合衆国義勇騎兵隊)、ボーア戦争の南アフリカ兵など、ほかの軍隊もカーキ色の制服を使い始めた。 カーキはクリーム色、黄褐色、薄茶色、灰色がかった緑色(「ドラブ」とも呼ばれる)など、さまざまな色合いを表す言葉として使われており、第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけて、軍服に広く採用された。 鉱業や農業などの屋外労働からテニス、ゴルフ、ハイキング、キャンプなどのレクリエーション活動まで、この時期、カーキ色の衣服は民間にも定着した。20世紀初頭、カーキ色をまとった冒険家が新しい土地を探索し、「エキゾチック」な文化を研究し、サファリで野生動物に打ち勝つというロマンティックなイメージが生まれた。 このロマンティックなイメージによってカーキ色の魅力が高まり、人々はこぞって探検家や冒険家の服装をまねようとした。米国では、テディの愛称で知られるセオドア・ルーズベルト大統領をはじめとする探検家や労働者階級の間で、カーキ色の人気が高まった。 リーバイ・ストラウス(リーバイス)社の社史を担当するトレーシー・パネック氏によれば、リーバイスは1910年代、アウトドア活動に適したカーキ色の衣服を発売した。さらに、戦争から帰還した米国兵や大学生を魅了するカーキ色の商品をつくり続け、1990年代にビジネスカジュアル革命を起こしたカーキ色のパンツのブランド「ドッカーズ」を生み出した。 カーキ色のファッションは20世紀に一般市民に浸透し、肉体労働者、名門私立校の学生、ビジネスマン、児童の間で人気を博したが、カーキ色は常に軍隊の意味合いを持ち続けてきた。