負債9億円「イカ王子」の“光と影”の半生 金髪ニーチャンが「復興の星」となり破産、そして再生するまで
■東日本大震災で「意識が変わる」 そんななか、20代前半のときに鈴木さんは両親から「会社を継がないか」と打診される。両親がわざわざ仙台市まで来て話し合いが行われた。 「兄弟は皆、一般企業の会社員として働いており、地元に戻ってきやすいという点で、僕が第一候補になったんでしょうね。僕自身、高い入学金を払ってもらったのに大学を退学した負い目もあったので、両親の要望に従うことにしました」 ただ、本心はまったく違っていた。 「当時、オヤジのようなイカを加工する会社なんてダサいと思っていました。イカなんて臭いし、工場で永遠にイカをさばく生活なんてイヤだなって。だから、入社しても仕事に身が入らないことが多く、日々、漫然と過ごしていましたね。朝早く市場へ行くのもダルいし、ひたすらイカをさばくのも面倒だなって、本当にやる気ゼロ。街にも女の子が全然いないので、『つまんねえな』と嘆いていました」 そんな鈴木さんを変えたのは、東日本大震災だった。 宮古市では、震度5強と5弱を観測。沿岸部の宮古地区では津波が発生し、市内で476人が死亡、94人が行方不明になった(消防庁、2024年時点)。町の至るところに、がれきの山が積み上がり、逆さまになって転覆した乗用車やブルーシートに包まれている遺体が数多くあった。「共和水産」の建物は津波に流されずに済んだものの、倉庫には津波が直撃して在庫はすべて水没した。被災によって抱えた借金は1億3000万円にもなったという。 追い込まれた鈴木さんは「自分に何ができるのか」を必死に模索した。目立つことをすれば、宮古のことを思い出してくれるのでは、宮古のおいしい水産物の味を覚えてくれるのではと考え、王冠を手に取った。「イカ王子」が生まれた瞬間だった。
■希望からの転落…会社は民事再生に 鈴木さんは毎日のように王冠をかぶり、各地の飲食店に営業へ行ったり、子どもたちに魚料理を振る舞ったりした。次第にメディア露出も増えたことで「イカ王子」の認知度は宮古のみならず、東北から全国へと広がっていき、東京都内のイベントでも王冠をかぶる日が続いた。 「イカ王子と名乗るようになってから、会社の代表取締役専務に就きました。売り上げも右肩上がりになり、業績も回復しつつありました。コロナ禍では外出自粛となり、イベントの出店などはできなくなったものの、すでにネット注文にかじを切っていたことから、なんとか乗り切ることができました」 これからは明るい未来が待っている――そんな鈴木さんの期待を打ち砕いたのは、日本全国を襲った記録的な漁獲量の低下だった。 前述のように、農水省の統計では22年の漁業と養殖業を合わせた生産量は、1956年以降、過去最低を記録した。同省によれば、不漁の背景として、海水温上昇による生態系の変化が大きいという。また、ロシア・ウクライナ情勢による原油価格の高騰で船の燃料代がかさむことから、漁を控える漁業者が多くなったことも一因と考えられる。 これを受けて、宮古市内でも屋号を下ろす水産業者が増え、鈴木さんの「共和水産」も昨年10月、民事再生の手続きに入った。そして、「イカ王子」も王冠を外した。