被団協がノーベル平和賞受賞「先輩たちの努力の結果」…宮崎県へ移り住んだ被爆者、悲劇語り継ぐ決意
被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」が今年のノーベル平和賞を受賞した。6歳の時に長崎で被爆した宮崎県原爆被害者の会の田中芙己子会長(86)に受賞の受け止めや核廃絶への思いなどを聞いた。(石原拓海) 【写真】「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」ノーベル平和賞・被団協の訴えが世界に広がる
――県被害者の会とはどのような団体なのか。 「広島、長崎で被爆し、宮崎に戻ってきた県出身者らで1960年に結成した。商業施設でのパネル展や高校生への語り部活動、県や長崎での慰霊祭への参加といった活動を行っている」 「串間市、都城市、日南市、宮崎市に支部があり、会員は多い時で1700人いた。現在は約50人。以前は被団協に所属していたが、会員の減少などを理由に脱会した」
――長崎に原爆が投下された1945年8月9日、自身はどこにいたのか。 「自宅は長崎市中心部の長崎駅前にあったが、原爆投下の数日前に約5キロ離れた旅館に母、妹と避難していた。1階の布団部屋にいたので窓は布団で遮られ、光や熱線などは受けなかった。日を置かず、市中心部で消防関係の仕事をしているはずの父を母、妹と3人で捜しに行って被爆した」 「道中、子どもを抱っこしたまま倒れている女性や黒焦げになった遺体を見た。川のほとりでは、水を求めて亡くなったであろう人の遺体が重なり合っていた。今でも思い出すことがある。無事だった父と再会できたが、自宅は全て焼けていた。母は顔をしかめて『ここにおったら生きとらんね』と言った」
――被団協がノーベル平和賞を受賞したことをどう受け止めるか。 「被爆者の先輩たちの中には『自分たちだけが生き残ってよかったのか』との悩みを抱える人もいた。みんなで原爆はいけないと伝えていこうというのが私たち被爆者の思い。今回の受賞は、その思いをつないできた先輩たちの努力の結果だと思う。唯一の被爆国である日本の被団協がノーベル平和賞を受賞したことは意義深い。被爆者の一人としてすごくうれしい」