『サクラ大戦』をプロデュースした広井王子「自己破産寸前で渡された白紙の小切手」
あつらえたリネンのスーツがよく似合う。このサングラスの御仁こそ、日本の元祖マルチクリエイター・広井王子である。食玩のオマケの世界に深いストーリーを融合させた『ネクロスの要塞』をはじめ、アニメ『魔神英雄伝ワタル』のプロデュースに、ゲーム『天外魔境』シリーズを手がけ、『サクラ大戦』シリーズでは原作・総合プロデューサーを担当。その後も数々のゲームの原案・原作を務め、現在は吉本興業プロデュースの「少女歌劇団ミモザーヌ」の総合演出である。 【インタビュー写真】俺のクランチ 第55回-広井王子-(撮影:谷川嘉啓) このインタビューのテーマが「土壇場」であると伝えると、「それはまさに僕にぴったりだな」とニヤリと笑った。 ◇マルチクリエイターになるべくして育った幼少期 「『土壇場』っていうと、江戸時代の処刑場の首切り場のことですよね? 罪人が首を差し出して切られる場所。僕、今年70歳になって、ようやくいろんなものが手の内に入ってきた気がするんですけど、これまで人生ずーっと土壇場でしたよ。 というのも、これまで会社勤めをしたことがなくて、ずっと企業との契約でやってきてるので、基本、首を差し出している前提なんです。うまくいけばかろうじてつながるけど、失敗したら切られる。かつ、ロイヤリティなんで収入はまったく安定していない。最初の頃なんてバイトしながら仕事してましたからね」 最初の最初は、東京・東向島の娼家の生まれ。周りにはきれいなお姉さんたちが常にいて、生まれながらに歌舞伎に落語、小唄に浪曲などが身近にあった。そんな“物語”たちにまみれつつ、伯母が松竹歌劇団のメンバーだったこともあり、2歳で初めてレビューを見て夢中になる。 さらに映画や小説にもハマり、鑑賞するだけでなく自分でもつくるようになり、広井王子はクリエイターになるべくして育ったのだ。 「僕の3分の1は、幼い頃に母親がつくった土台があって、その上に森本レオさんに育てられた部分があり、残り3分の1は『ぴあ』なんです」 順を追って説明しよう。「森本レオさん」は、俳優の森本レオである。高校時代から8ミリカメラを回して映画を作っていた広井が、大学生のときに参加した自主制作映画のサークルを通じて知り合い、付き人をしていたという。 「あ、でも1回も正式に付き人だって言われたことはないんです。呼び出されていろいろな現場にお供して、時にはこっぴどく叱られながらも、ごはん食べさせてくれて……今も時々お会いしています」 そして、雑誌の『ぴあ』。広井が18歳の頃に創刊された。 「当時はDVDはおろかビデオすらなかったですからね。観たい映画は、上映してる劇場を探して行くしかなかった。落語を聞きに行くにも何を見るにも、ずっと『ぴあ』を片手に行動していました」 で、そんな折りに広井は「働かない」ことを決意したという。それはつまり、生活のために労働しないということ。というか、その決意は揺るがないまま70歳の今にまで来ている。 「仕事は、趣味を成立させるためにやってるだけのことなんです。だから基本、請負で仕事しているくせに営業に行くことはほぼないですし、好きじゃないことをしたこともないんですよ。 本当は、映画を観て、落語と音楽を聴いて、本を読んでっていう生活さえできればいいんです。お金はDVDや本を買い、映画に行き、レコードやステレオを買えるためにだけあればいい。高校時代から自分が必要なものを手に入れるためにバイトしてたんですけど、今もそれは全然変わってない(笑)。食べる物も、立ち食いそばと吉野家とカップ麺でいい!(笑)」 そんな「働かない」青年がなぜ、マルチクリエイターとして働きまくることになったのか。ここからは、さまざまな土壇場大全集だ。 ◇やったことがない仕事が連鎖してオファーが続く 20代の頃に手がけていた帽子の刺繍や、Tシャツのプリントのデザインの仕事が軌道に乗り始めた頃……というか、この前提が唐突すぎるのだが、それが広井王子だ。かつて自身が率いていた会社「レッドカンパニー」は、もともとデザイン会社だった。 その頃、「なんかカワイイし、面白そうだったから」と、石に絵を描いて原宿の路上で売り始める。石は売れなかったが、広井王子が売れた。ある広告代理店から声がかかるのだ。 「仕事とかじゃなくて、“遊びに来い”って言うからメシでも食わせてもらおうと思っていたら、“これやってみろよ”って言われたのが、『ジョイントロボ』。それが『スーパージョイントロボ』になり、その後、『ネクロスの要塞』につながっていったんです」 画期的だったのは、ガムについてるプラスチックのちっちゃいオマケに「ストーリー」を持ち込んだこと。 名もなきオマケだった『ジョイントロボ』の手伝いをはじめ、そこに独自の世界観を加味した『スーパージョイントロボ』の企画を出し、さらに仲間がハマっていたRPGにヒントを得て、「このオマケ、ゲームのコマになるんじゃね?」と生まれたのが『ネクロスの要塞』だった。 ずいぶんハマられた皆さんも多いと思うが、この“作品”が、広井王子をさらなる沼に引きずり込む。 「ある日、日本サンライズから声がかかって“お前できるか?”って言われたのが『ワタル』だったんです」 やったことはない。でも、やりながら覚えるというのが広井流。 「“アニメの企画書って、どう書けばいいんだろう”ってところからのスタートなんです(笑)。当時、パソコンなんてないから、画像とかはデザイン仕事でトレスコープ(写真やポジフィルムを原稿台に写して、拡大・縮小して輪郭を描ける機材)を使えたから、それでコピーして、ハサミとノリで切り貼り。いつも手本なんかはなかったんですよ」 こうしてアニメ第1作『魔神英雄伝ワタル』が生まれ、さらに……。 「あるとき、“カニを食いに来ないか?”って札幌に誘われて、ホイホイ行ったら、ハドソンに軟禁状態にされて、“ゲーム作ってくれ!”って。カニには目がないんです(笑)」 ハードはPCエンジンCD-ROM2。家庭用ゲーム機として世界で初めて光学ドライブを搭載し、それまでカートリッジだったゲームソフトをCD-ROMでつくる、という案件だった。 「プログラマーも含めて全員が手探りなんですよ(笑)。CD-ROMにどのくらいデータを収められるかわからないから、最初は読み込むだけで20分ぐらいかかってたんです。それをどうやって速くするかもわかんない。 それと16色だったんで、カラーで絵を描いてスキャンすると、16色でそれを再現しようとしてデタラメな色になる。線画をスキャンして、ディスプレイ上で見ながら塗っていくとか、ホントもう全部手探り(笑)」 それが『天外魔境』シリーズの始まり。そんなふうに連鎖的に仕事が広がり、広井王子のマルチクリエイター化は進んでいった。しかも、今のように制作現場も成熟していない時代だったため、やったことないことばかり。未知の案件を請け負って、切られるかもしれない首を突っ込んでいく。