私たちは「優れた労働者」でなくてはならないのか?...芥川賞『バリ山行』、映画『PERFECT DAYS』から見える「ふつうの暮らし」の美学
未開拓ルートでの登山に挑む『バリ山行』
この小説の主人公・波多は、建物の修繕会社に勤める三十代の男性である。この人は、以前の職場でいわゆる「肩たたき」の対象になったことのトラウマもまだ新しく、そのため社内での自分のポジションを気にして生きている。 波多の行動原理は基本的に、「うまくいく」ことであり、そしてどのような状況が自分にとって「うまくいっている」と言えるのか自分で考えようとすることなく、定石をなぞろうとして空回りする。 しかし、同僚の妻鹿が行う「バリ山行」、すなわち通常の登山ルートではなく、時には大きな危険も顧みずに未開拓の道(バリエーション)を進む登山を知ることで、波多の価値観は大きく揺さぶられる。 妻鹿は趣味の登山のみならず、仕事の仕方も自己流で、会社の雰囲気など意に介さず自分らしい仕事をする人物である。 妻鹿の生き方は他律ではなく自律によっており、自分自身が尊厳ある生き方を本能的に選び取った結果だと言えるだろう。妻鹿のバリ山行の様子は、非常にリズミカルであり、ふつうの登山では見えないものを見せる。 波多は次のように描写する。 「幹だけになった朽木は色褪せて白く、それが幾重にも折り重なって峪の先が煙るように見えた。そこにはもはや景色と言えるような穏やかさも調和もなかった。崩落の力をそのまま残し、観る者のいない混沌があった。その中に踊り込んで行く妻鹿さんが見える。それは滑稽なほど快活だった。」 かつて太宰治が風景、すなわち人間に飼い慣らされ見尽くされたもの以前の光景を、津軽に見出した。しかし、混沌は妻鹿たちの住む街のすぐそばにある六甲山の中にもある。それを見つけて味わうことができるのは、常識から逸脱して自分自身のリズムを刻む者なのである。
「わたしにとってのふつう」は「ふつうをはみだした」先に
先日、私は『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』(光文社新書、2024年)という本を書いた。この本は日常美学という、21世紀に入ってから盛り上がりを見せ始めた美学の一分野についての入門書である。 私が専門とする美学は、私たちの感性のはたらきについて考える哲学的学問であるが、そこで長らく議論されてきたのは、芸術作品のような特別な対象を前にしたときの感性のあり方であった。 これに対して20世紀後半には自然や都市といった環境、そして21世紀には日常生活に対峙する私たちの感性に注目が集まる。 私の本ではたとえば、日常生活のルーティーン、すなわち日々ある一定の行為を繰り返すことは、たんなる機械的な反復ではなく、美的な経験の一種になりうるのではないかということを論じている。 昨年公開された映画『PERFECT DAYS』(ヴィム・ヴェンダース監督)の主人公・平山(役所広司)は、公衆トイレの清掃の仕事をし、銭湯、居酒屋を回って帰宅して読書する、という平凡な繰り返しにしか見えないルーティーン的行為が、実際には日々微妙に変化していく世界に対して反応しながら自分のリズムを刻んでいく。 このように、平凡に見える日常生活の背後ではたらく感性の存在を明るみに出すことが、拙著の課題の一つであった。 もちろん、バリ山行にならってただ危険を犯せばいいというものではない。とはいえ、仕事も生活も、本当に自分自身が満足するスタイルを見つけようとするとき、私たちはふつうをはみ出してみる必要があるのかもしれない。 そこでこそ、私たちは「私にとってのふつうの暮らし」を築いていけるのではないか。