群馬が生んだ元世界陸上ランナー・絹川愛さん 彼女が選んだ第三の人生とは…?(上) 「すごい人」になりたかった中学・高校時代
陸上の強豪校・仙台育英高(宮城県)がそんな彼女に「目を付けた」。当時、総監督を務めていた渡辺高夫の熱い思いが、15歳の絹川には刺さった。「絶対に世界に連れて行きますから」。群馬を離れ、一人仙台へ。「もちろん寂しさもありました。でもそれ以上に『世界』という言葉に魅力を感じちゃったんでしょうね」
そして、高校時代の彼女はさらに注目される選手へと成長を遂げる。入学した年のインターハイでは早くも1500メートルで3位に。
その後、舞台はシニアへと移る。挑戦する種目も徐々に距離を伸ばしながら、クロスカントリー大会やら日本グランプリシリーズやら、日本選手権やら…、そういった大会で実業団の選手に引けを取らない結果を出す。クロカンで参加標準記録Aを難なく突破し、2007年6月の日本選手権1万メートルでは3位に入り、大阪で開かれた世界陸上の代表に選ばれた。
「今だから言えますけど、私走ることがあまり好きではないんですよ」。突拍子もない発言が出た。「本当に嫌なので、1秒でも早くゴールして、家に帰りたい…そんな思いで走っていたんです」。それが速さの秘けつだったのだろうか…。「でもさすがに、あの時の日本選手権は頑張ろうと思いました。3位以内に入れば、日本で開催される世界陸上に出られる。地元を離れて、親元を離れてまで陸上を続けてきたんだから、頑張らなきゃと。目指していた『世界』だったし」
平成生まれ初の日本代表と称され、一層、注目度は高まった。「当時、自分自身はそんなにすごいことをしているとは思っていないんです。それよりも、練習が辛くて、みんなと同じ普通の高校生に戻りたいと思ったり…。でも貴重な経験ではありました」