日本人の「外交ベタ」っぷり、じつは「日露戦争」のときからほとんどかわっていなかった
パブリック・ディプロマシーで敗北した大日本帝国
山岡:パブリック・ディプロマシーに関していうと、第二次大戦において日本が対米開戦を避けられなかったのは、まさにそれで負けてしまったからだという一面も否めません。もちろん、アメリカ側がかなり前から綿密に対日参戦の計画を立てていたという要因もありますが、やはり日本側がパブリック・ディプロマシーで敗北したことが大きいと思います。 山上:おっしゃる通りですね。その背景には、中国で布教活動を行ってきたアメリカ人の宣教師たちの中国寄り姿勢もあれば、当時は貧しくて弱かった中国への同情と共感も米国社会にあったことは、ジョージ・ケナンも回想録で指摘しているところです。 山岡:有名なところでは、蒋介石の妻、宋美齢(そう・びれい)がアメリカ全土を駆け巡り、日本がいかに悪であるかを流暢な英語の演説で訴え、アメリカ世論を親中反日に導きました。 一方、日本は、それに対する有効なカウンター・ナラティブを用意できなかった。というより、その頃には、世界に向けて日本のナラティブを英語で発信しようという発想すらなかったのかもしれません。 日本も日露戦争の前には、ハーバード大学ロースクールで学んだ金子堅太郎を渡米させて、日本に有利な国際世論を形成することに成功した実績があります。 山岡:この頃の日本には、戦争をする以前に、いかに国際世論を味方につけて、自国が孤立の道を歩まないようにするかという現実的な発想、今日でいうところのパブリック・ディプロマシー的な発想がありました。 その成功体験がありながら、なぜその後、パブリック・ディプロマシーを補強していかなかったのか。なぜ歴史に学ばなかったのか。私は不思議に思うと同時に、危惧すら覚えます。 山上:実は日露戦争後にポーツマス条約を締結した時点で、すでにそうした兆候が現れています。 ポーツマスの講和会議において、ロシアの全権代表であるセルゲイ・ウィッテはアメリカのメディアに盛んに働きかけてアメリカ世論を味方につけることに成功しました。 また、アメリカ以外の有力な第三国、すなわちイギリスやフランス、イタリアのジャーナリストにも愛想よく振る舞って食事に招くなど、国際世論を親ロシアに導くために、戦略的にメディア工作を仕掛けています。 それに対して、日本の全権代表の小村寿太郎は、アメリカのメディアを軽視するような態度をとった上に、戦費賠償の支払いと樺太の割譲に固執してしまい、日露戦争前に金子堅太郎らが築いてきた親日ムードを冷めさせてしまいました。 ポーツマスに取材に来た新聞記者に対し「吾々はポーツマスヘ新聞の種をつくらんが為に来りしにはあらず、談判を為さんが為なり」と答えて記者たちの怒りを買ったというエピソードも伝えられています。 山上:私は、小村寿太郎のことを、外交官としては非常に骨のある優秀な人物だったと評価しています。しかし、宣伝工作、特にメディアへの働きかけという点では、ウィッテの方が一枚も二枚も上手だったと言わざるを得ません。 こうした史実を踏まえると、日本人の口下手、宣伝下手、とりわけメディアに対する工作の稚拙さは、ここ100年以上変わってないわけです。 だから、せめて自分たちの不得意な分野を自覚して、「下手クソだからこそ、そこを何とか改善しなきゃいけない」という危機感を持たないと、日本外交は変わらないと思います。 * さらに【つづき】「日本はなぜ中国にナメられるのか…? 「弱腰」すぎる日本の外務省の「驚くべき態度」」の記事でも、二人の対話を追っていきます。
山上 信吾、山岡 鉄秀