上重聡「延長に入ってからの松坂大輔はすごかった!」PL対横浜“伝説の延長17回”を振り返る
藤木直人、高見侑里がパーソナリティをつとめ、アスリートやスポーツに情熱を注ぐ人たちの挑戦、勝利にかける熱いビートに肉迫するTOKYO FMのラジオ番組「SPORTS BEAT supported by TOYOTA」(毎週土曜 10:00~10:50)。5月25日(土)の放送は、前回に引き続き、フリーアナウンサーの上重聡(かみしげ・さとし)さんをゲストに迎えて、お届けしました。
1980年生まれ、大阪府出身の上重聡さん。高校時代は野球の名門・PL学園のエースとして、1998年の甲子園に春夏連続出場。特に夏の甲子園・準々決勝で対戦した松坂大輔さん擁する横浜高校との延長17回に渡る熱戦は大きな話題となりました。進学した立教大学では東京六大学リーグで史上2人目となる完全試合を達成。その後、日本テレビでアナウンサーとして活躍され、この春からフリーアナウンサーに転身しました。
◆松坂大輔を見たときの衝撃
藤木:上重さんといえば“松坂世代”。今振り返ってみると、本当に錚々たるメンバーがいましたよね。 上重:100人以上がプロ野球に行った世代なので、すごいことですよね! レベルが上がったのも、やっぱり松坂くんの影響が大きかったと思います。私も春の選抜で初めて松坂大輔を見たんですけど“こんなにすごい人がいるのか!”と度肝を抜かれましたね。今まで見たことのないようなボールだったので。 藤木:松坂大輔という存在を知ったのは、いつ頃だったのですか? 上重:秋の大会が終わって、春のセンバツに向けた雑誌が出るんですけれども、その表紙に「150km/h怪物 現る!」みたいな見出しがあって、それが松坂大輔でした。でも、雑誌ってちょっと大げさに書いたりすることもあるので“150km/hも出ないだろう(笑)”と思っていたのですが、(春のセンバツで)いざ試合をしたときに“とんでもないな”と。打席に立ったチームメイトが初めて青ざめて帰ってくるのがわかりました。 それで、春に負けてから、合言葉が“打倒松坂”“打倒横浜”に変わったんです。普通に練習試合をしても、「松坂のボールはもっと速い」「これで満足していたら松坂は打てない」と、基準がすべて松坂大輔になったんです。ただ、これは恐らく自分のチームだけじゃなくて、他のチームもそんな気持ちだったと思うのですが、“松坂を目指してみんなで頑張る”という構図が勝手にできあがって、それに合わせて自然とレベルも上がっていったのかなと思います。