【鉄道と戦争の歴史】台湾に鉄道を敷設した男たち─海外にも延伸した鉄道網─
日清戦争を体験したことで、政府は戦時における鉄道の重要性を再認識。そこで「鉄道敷設法」に基づいて国内鉄道網の整備計画を作成する。さらに初めて獲得した海外領土である台湾にも、近代的な鉄道の敷設を進めた。 近代戦では兵站(へいたん)の優劣が、勝敗を分けるということを学んだ日本は、より一層鉄道網の整備に力を注いだ。政府や陸軍が恐れていたのはロシアの存在だ。日清戦争に勝利し、下関講和条約で「遼東半島の割譲」という条件を手にしたが、ロシア帝国が主導した三国干渉により、遼東半島を清国に返還することになる。しかもロシアは、清国から遼東半島先端部の租借権を獲得。それは日本からすれば、首元に匕首を突きつけられたようなものだ。日本政府は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に、民衆の不満をロシアへの敵愾心(てきがいしん)に転嫁していった。 その下関条約では、日本が台湾を領有することが認められることとなった。それに基づき明治28年(1895)6月17日には台湾総督府が設置される。台湾ではそれまで、清国の初代台湾総督の劉銘傳(りゅうめいでん)が全台鉄路商務総局鉄道を運営していた。日本はこれを接収し、陸軍が軍事物資の運搬に活用することにした。 だが鉄道としては低規格で、とてもそのまま使用し続けることはできなかった。初代台湾総督樺山資紀(かばやますけのり)は、「内外の防禦」に備えるために近代的な鉄道建設を構想。それは台北、台中、台南を経て高雄に至る縦貫鉄道で、その建設を日本政府に要望した。 明治31年(1898)、児玉源太郎(こだまげんたろう)中将は第4代総督に就任すると、補佐役として後藤新平(ごとうしんぺい)を民政局長に任命。後藤は安政4年(1857)に仙台藩留守家家臣・後藤実崇(さねたか)の長男として生まれた。胆沢県大参事であった安場保和(やすばやすかず)に見出され、わずか13歳で書生として引き立てられ、胆沢県庁に勤務。そして内務省衛生局員時代の上司だった陸軍の石黒忠悳(ただのり)が、後藤を児玉に推薦。こうして後藤と台湾、さらには鉄道との縁が生まれたのである。 後藤は台湾で進められていた南北縦貫鉄道の建設は、民間会社で完遂するのは不可能と判断。そこで「台湾事業公債法」を発布し、鉄道敷設のための公債を募集するとともに、鉄道国有計画として確定した。そして基隆~新竹間の既存線の改良工事と、新竹~高雄間の建設工事に着手したのである。 工事は明治32年(1899)、臨時台湾鉄道敷設部技師長に任命された、長谷川勤介(きんすけ)が一切をとり仕切った。後年「台湾鉄道の父」と呼ばれた長谷川は、悪疫や天候不順、資材運搬の困難といったさまざまな苦労を克服。 そして明治41年(1909)には基隆~高雄間の404.2kmを無事に全通させた。この鉄道は、台湾の発展に大きく寄与することとなる。それは同時に、日本の国力向上にもつながった。 長谷川は縦貫線の完成とともに辞任し、後には鉄道院副総裁を務めるなど、国内の鉄道整備にも尽力している。一方後藤は、明治39年(1906)に初代満鉄総裁に就任。鉄道を通じた日本の海外進出の一翼を担っている。
野田 伊豆守